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中国共産党、抗日戦争の大黒柱

発表時間:2015-09-28 | 字体拡大 | 字体縮小

著者:沙健孫 | 出所:「光明日報」2015年8月24日

 抗日戦争は近代以来の中国が初めて完全勝利を収めた民族解放戦争である。

 アヘン戦争後の長い時期において、近代中国の反侵略戦争はすべて中国の失敗で終結した。その原因を求めれば、「1、社会制度の腐敗、2、経済・技術の立ち後れているためであった」。

 抗日戦争期に、中国社会の半植民地半封建的性質と経済技術の立ち後れた状況はまだ根本的に改めていないが、中国はすでに新しい、これまでない進歩的な要因が現れた。主として、資産階級とプロレタリア階級を持つようになり、すでに自覚しあるいは自覚している広範な人民がおり、(すでに2回も革命の勝利と失敗の経験を積み重ね、政治上熟した)共産党を持つようになり、政治の上で進歩的軍隊つまり共産党の指導する人民軍隊をもち、局部の人民政権つまり共産党の指導する解放区政権をもつようなった。要するに、腐敗した社会制度はすでに局部的に廃止された。中国はすでに「歴史上進歩的な時代にあり、これは日本に十分なに打ち勝つ主要な根拠であった」。 

 この歴史上の進歩的時代にあり、中国共産党は抗日戦争の大黒柱となってこそ、抗日戦争ははじめて堅持することができて、最後の勝利を獲得するようになった。これは抗日戦争が中国人民が反侵略闘争の歴史上の新しいページを書きつづってきた。

 一、率先して抗日民族解放戦争の旗幟を挙げた

 1931年9月、日本の軍国主義の勢力は「九・一八」事変を発動して、中国をその独占する植民地に改めようとする段階となった。中華民族で生死存亡の緊急の瀬戸際に、中国共産党は率先して武装抗戦の旗幟を挙げた。「九・一八」事変後の翌日、中国共産党中央はすぐ「日本帝国主義の強盗どもが東北三省、熱河を強奪占領したために、宣言」を発表し、日本帝国主義の目的は「中国を完全にその植民地にすること」だと摘発した。その後、中国共産党中央は更に一連の告示の中で、「労農は武装して、日本帝国主義に反対しよう」と呼びかけた。これとその時の国民党政権の「不抵抗主義」とは鮮明な対比となった。

 中国共産党はまた直接東北の人民の抗日武装闘争を指導し、白山黒水の間で、日本の侵略者と命がけの闘いを行った。同時に、一部の国民党員との武装抗戦協力を始めた。

 1935年の華北事変後、中国共産党中央は「内戦を停止するべきであり、あらゆる国力(人力、物力、財力、武装力など)を集中して抗日救国の神聖な事業につくすために」と。1936年5月、毛沢東、朱徳は南京政府に「停戦・講和」、「一致抗日」を要求する電報を送った。9月、中国共産党中央は「蒋介石に反対」のスローガンを放棄し、「蔣介石に抗日をせまる」方針をうちした。2月、中国共産党中央は民族の大義から出発して、西安事変に平和裏に解決するように促進し、第2回の国共合作の確立、全国的な抗日戦争の遂行のために必要な前提を作り上げた。

 1937年7月7日、盧溝橋事変が勃発した。日本は全面的な中国侵略戦争を発動した。7月8日、中国共産党は全国に電報を打って、抗日民族統一戦線の創立、侵略への抵抗を呼びかけた。15日、中国共産党代表は「中国共産党中央が国共合作を公布するための宣言」を国民党に渡した。9月22日、同宣言は国民党中央通訊社から公式に発表した。この宣言の発表と国民党の事実上中国共産党の全国における合法的地位を承認し、国民党と共産党の2党協力を基礎とする抗日民族統一戦線が正式に形成することを示した。全国的抗日戦争はまさに抗日民族統一戦線という基礎の上で発展された。

 二、全面的な全民族の抗日戦争路線はすなわち人民戦争路線の制定

 抗日戦争が始めた後、中国の直面した最も中心的任務は、どのように抗日戦争を堅持し、抗日戦争の勝利を勝ちとることである。

 中国共産党は次のように明確に指摘し、無組織状態の中国の民衆を動員・組織して、すでに始まった抗日戦争を「全面的な全民族の抗戦に発展させ」、これは「抗戦の勝利をかちとる中心の鍵」である。党の第7回代表大会のまとめた党の政治路線は、即ち「思い切って大衆を立ちあがらせ、人民の力を強大にして、わが党の指導のもとに、日本侵略者をうちやぶり、全国人民を解放し、新民主主義の中国を樹立する」ることである。これは、実には党の全抗日戦争期の政治路線である。

 中国共産党は人民戦争路線の積極的な提唱者であり、この路線の断固として執行する者である。

 中国においてその時農民は全国人口の80%以上を占め、人民大衆の主体部分である。中国共産党は党員、幹部と人民軍隊指揮官および戦闘員を派遣し、敵後方の農村に深く入り込んで、ゲリラ戦と大衆への働きかけを広く深く展開し、抗日民主政権の確立に大いに力を入れ、立ち後れた農村を先進的革命陣地に建設する。日本侵略者に占領された土地は日に日に縮小させ、彼らが制圧することができるのは少数の都市と交通線だけであった。

 全国の人民の総動員を実行するため、中国共産党は断固として人民大衆が民主・民生問題の解決を支持し、促進する。それによって各階層の人民を奮い立たせて積極的に抗戦の闘争に身を投じて、「労農兵学商が一緒に国を救う」局面を形成する。中国共産党は「蒙古族、回族とその他の少数民族を動員し」「共同に抗日するよう」と主張し、同時に知識界、工商業界および国内外の華僑と華僑の家族の中で積極的に活動を繰り広げた。

 中国共産党の直接指導する八路軍、新四軍とその他の革命武装は、人民の子弟兵であり、抗日の模範隊列である。この人民との一体となる党の指導した抗日武装は、抗日戦争開始の時点からの5万人足らずで、迅速に中期の10数万、数十万人、後期の120万人に発展した。彼らは抗日戦争を堅持し、抗日戦争の勝利を獲得する中堅の力となり、「中国の抗日戦争の主力軍」となった。

 三、持久戦の戦略の方針を打ち出して、独立自主による敵後方のゲリラ戦を展開した

 全国的抗日戦争が爆発する前夜、1935年12月、毛沢東同志は次のように指摘し、「敵を打倒するには持久戦をしなければならない」。1938年5月、抗日戦争の10ヶ月の経験を総括し、「持久戦について」の講演を行い、中日の戦争が持久戦であるしかなく、最後の勝利は中国に属するしかないとと指摘した。

 中国の抗日戦争は国共合作の条件下で行ったのである。国民党軍は正面戦場で戦う任務を担い、主として正規戦である。共産党が指導した人民軍隊は敵後方戦場での戦う任務を担い、主としてゲリラ戦を行ったのである。

 抗日戦争の初期と中期、遊撃戦は戦略的地位に引き上げられ、全局的意義を持つようになり、それは人民軍隊の作戦の主要な形式となり、日本侵略者に打撃を与えた戦闘の中で大きな威力を示した。抗日戦争開始の時点、人民軍隊は八路軍、新四軍を含めて、総計は5万人足らずで、この人数の少ない兵力で正規戦争を行っても、その効果はとても限られた。しかしそれで遊撃戦を行ったら、この5万人は5万の火種になり、敵後方の広大な土地で拡散して、千百万の大衆を組織し、野原に燃え広がる烈火を燃やすことができ、その役割は巨大なもので計り知れないものである。

 戦略的防御段階、遊撃戦の敵後方での広範な展開と敵後方の抗日根拠地の開拓により、敵が占領区に対する固い制圧を確保することはできなくなった。こうして、敵はやむを得ず正面戦場で進撃する兵力を引き抜いてその占領区の守備に回しなければならない。したがって、敵後方でのゲリラ戦の発展は、敵軍の進撃を効果的に遅らせ、戦争の対峙段階へ転換させるために、鍵とした役割を発揮した。

 戦略的対峙段階、遊撃戦は主要な地位に上がった。1938年10月、日本軍が武漢を占領した後、国民党の正面戦場に対する戦略的進撃を停止し、主要な兵力を敵後方戦場の人民軍隊への攻撃に逐次まわし、その占領地の維持と強化をはかるためであった。1940年下半期から、日本軍は敵後方戦場の抗日根拠地への「掃蘯(掃討)」を強化した。

 太平洋戦争の勃発後、日本軍は華北、華中に派遣した軍隊が合わせて55万人余り、その中に占領区を強化するのに用いたのが33万人余り、また多くの傀儡軍がそれに協力した。敵後方戦場は抗日主要な戦場の重責を担うようになった。これから、中国共産党は日本の侵略軍に抵抗し反撃を加える主要な責任を受け持ち始めた。人民軍隊が行った遊撃戦は抗日戦争の主とする作戦形式となった。この段階は抗日戦争期の最も苦難に満ちていて最も重要な時期であった。敵を弱めて、自分は強く大きくして、敵が強く味方が弱いという態勢を逐次改め、戦略的反撃を実行するために条件を整えた。この任務、主としてこの時期中国共産党が指導した抗日軍民が行った遊撃戦により完成された。敵後戦場で抵抗した日本軍・傀儡政権の勢力は、1943年、中国にいる日本軍の64%、傀儡軍の95%を占めていた。1944年春、敵後方戦場の人民軍隊は攻勢作戦に転換した。

 戦略反撃の段階、遊撃戦は主な作戦形式ではなくなり、というのも正規戦を行わなければ中国から日本侵略者を追い払う目的は実現することができないし、遊撃戦だけでこれはできないのである。しかし、この段階、人民軍隊が行った正規戦は遊撃戦から上昇してきたので、後者が対峙段階に反撃段階から正規戦、主として運動戦へ発展する戦略的任務であった。それゆえ、1945年8月、全面的な反撃段階が到来した際、人民軍隊はすでに120万人と発展し、民兵は220万人に上り、19つの抗日根拠地に達した。敵後方の軍民の大反撃は、この基礎の上成功裡に行われた。

 8年間の全国的抗日戦争の中で、中国共産党が指導した八路軍、新四軍とその他の人民抗日武装は対敵作戦を12.5万数回行って、日本軍、傀儡軍171.4万人余りを殲滅し、その中の日本軍が52.7万人余り、国土100余万平方キロを取り戻し、約1億の人口を解放した。彼らは抗日戦争を堅持し、抗日戦争の最後の勝利を勝ち取るために偉大な歴史に永遠に輝く貢献をした。

 四、国民党の支配地域の抗日民主運動を組織して推し進めた

 敵後方の軍民を指導し、ゲリラ戦を展開したことにより、日本侵略者に直接打撃を与えるとともに、中国共産党は国民党の支配地域と被占領地域での工作を展開した。

 抗日戦争期、党は国民党の支配地域に対する工作の主要な任務は、大衆を動員して組織して抗日救国闘争を行うこと。国共合作を堅持し、統一戦線を強化し発展させ、各民主諸党派、無所属の民主人士と各階層の人民と団結し、民主運動を展開し、大後方の各方面の進歩と抗日文化活動の発展を推し進め、党組織を発展させ、強化し、革命の力をためるなどであった。

 抗日戦争の初期、抗日民主運動は国民党の断固た抗戦と民主的改革の実行を促進し、各抗日党派の合法的地位と活動の自由を勝ちとることを主要な内容としたのであった。1940年9月後の一期間中、国民党政府が高圧政策を実行したため、大後方の民主運動が一時期低迷に向かっていた。

 1944年4月~5月間、国民党軍は日本軍を阻止するために河南・湖南・広西戦役の中で実行した全面的な大敗退。大後方の人民がこうした軍事上の失敗した原因が国民党の支配の暗黒と腐敗にあるとして、民主を求める呼び声がよりいっそう強くなった。1944年9月、中国共産党代表林伯渠は中国共産党中央の指示に基づいて、国民の参政会で「各抗日党派連合政府を組織する」という主張を打ち出して、大後方の民主運動の深化と発展を力強く推し進めた。

 国民党の支配区の抗日民主運動の展開、大後方の人民の愛国・民主な意識を呼び覚まし、国共合作を堅持し、団結して抗戦し、抗日戦争の前線を支援し、革命の力を蓄えるなどのために、直接重要な役割を発揮した。その上抗日戦争の勝利のために人民解放闘争の「第二の戦線」を形成するために初歩的な基礎を打ち立てた。

 五、抗日民族統一戦線を堅持し、強化し発展させた

 抗日戦争は全国各党各界各軍から結成された抗日民族統一戦線という条件の下で行ったのであった。中国共産党はこの統一戦線の堅持、強化、拡大を、抗日戦争の堅持と勝利の基本条件の1つと見なすとともに、自分の重要な責任とした。

 独立自主の原則に従って、中国共産党が統一戦線の中で進歩的勢力を発展させ、中間勢力を勝ち取り、頑固な勢力を孤立させる策略という総方針を取っていた。党は断固として国民党の制限を突き破って、思い切って広範な人民大衆、主として農民大衆を動員して、革命武装を発展させ、抗日根拠地を切り開いて拡大し、抗日戦争を堅持し、勝利を勝ち取るために基礎を打ち立てるとともに、時局の逆転、投降と分裂を阻止するために条件を作り上げた。

 抗日戦争が対峙段階に入ってから、国民党の取った消極的抗日の方針と分裂、妥協の傾向に対して、中国共産党は「抗日戦争を堅持し、投降に反対し、団結を堅持し、分裂に反対し、進歩を堅持し、逆行に反対する」というのスローガンを提起した。中国共産党は道理があり、有利であり、節度がある原則、つまり自衛する原則、勝利する原則と局部的原則をとって、国民党頑迷派が発動した数回の反共する高まりを効果的撃退しただけではなく、引き続き国共合作、共に抗日する局面を保ってきた。

 抗日戦争の歴史は次のことを強く証明し、中国共産党員はしっかりとした国際主義者であるだけでなく、まず最も真摯な、最も忠実で、最も徹底的愛国主義者である。抗日戦争を経て、中国共産党の指導する人民革命の勢力はかつてなく大きくなり、党の人民の中での政治的威信は極めて大きく向上した。多くの中国人は民族の独立、人民民主と国家の富強を実現する希望を、中国共産党に託してた。

 中国共産党は抗日戦争の大黒柱であり、これは疑いの余地のない歴史的事実であり、実際に相応しい科学的結論であった。

(作者、沙健孫、中央党史研究室元副主任)

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