ご意見・ご感想

南京大虐殺鉄案は歪曲を許さない

発表時間:2015-09-24 | 字体拡大 | 字体縮小

著者:朱成山 | 出所:光明日報

南京大虐殺、日本軍隊が南京を横領した後に殺戮、姦淫、放火、残虐等を犯した暴行の総称だ。これは、日本軍隊が中国侵略の暴行の中に最も野蛮、最も凶暴なで典型的な事件だった。20世紀80年代から、日本右翼勢力が途きれなくて南京大虐殺の歴史事実を質疑、否定の謬論を作り、全力を尽くして軍国主義の戦犯を美化してきた。しかし、何れにしても、うそでは血で書く歴史を覆い隠せない、南京大虐殺の歴史事実は歪曲を許せいない。日本侵略者は南京に起こした世界を驚き、極悪非道な大虐殺には、沢山の証人、証言と証拠物を残した。本文は侵華日軍南京大虐殺遇難同胞紀念館より数年間掛かって収集、整理及び研究資料により、沢山の証拠を以て、南京大虐殺が事実だある事を証明させ、疑問の余地がなくて、歪曲できない。

一、国際裁判所及び中国南京裁判所にての判決より南京大虐殺を法的な結論を出した 

1946年初、中、米、英、ソ連のなど11の国家より東京で設立した極東国際軍事法廷(以下“国際法廷”と略称)にて、《ポツダム宣言》に基づいて発表した“吾等は日本人を民族として奴隷化せんとし、又は国民として滅亡せしめんとするの意図を有するものに非ざるも、吾等の俘虜を虐待せる者を含む一切の戦争犯罪人に対しては厳重なる処罰を加へらるべし。”の精神により、平和破壊の罪、戦争法規と慣例を違反の罪を犯した日本の戦犯に二年間また六ヶ月の裁判を行った。 

由南京大虐殺が第二次世界大戦の間にファシズム暴行の中でとても際立ってた事件だし、日本軍国主義がアジア・太平洋地域の人民に加えた一連殺戮の暴行には最も凶暴の行為だったから、国際法廷がこの案件の審理についてはとても厳粛だった。中国から国際法廷に派遣した検察官補佐の裘劭恒の追憶により:“1946年3月~6月、国際法廷検察処検察長の季楠(アメリカ人)の提案及び中国検察長の向哲浚の派遣により、私は米国の石登検察官補佐とマーロ上佐と一緒に、二度と帰国し南京大虐殺の証人を探した。南京での取り調べの中に、司法部と高等裁判所からのサポードを得て、一万部以上の大虐殺材料の中から、100部以上の書面材料を選んだ、そして南京大虐殺の生存者の伍長德、尚德義を連れて、また南京安全区国際委員会のアメリカ人のマジー,スミス、ベデイスのなど10数名の国内外の証人と東京に行った”国際法廷の働いてた中国人の司法官梅汝璈も思い出した:“私達が約3週間を掛かって、中国からの本当に事件を目撃した国内外の証人(人数は10人以上)の口頭証言を聴き取った、また、被告者の弁護士の弁解を調査してから、100部以上の書面証言と関連文書を受け取り、また松井石根本人を尋問した。” 

国際法廷が大量の人証、物証に基づいて、中国侵略日本軍より南京に起こした暴行が現代史の中に前代未聞な残虐記録と確認できた、1218ページの判決文の中に、2つの文書に紙面で“南京攻撃”と“南京大虐殺”をテーマとする判決文を作成し、日本侵略者より南京に犯した犯罪は“事前計画した”“殺戮対象は罪がない市民と捕虜だ”“日本軍隊が大規模に六週間続いた殺戮”“日本軍隊が南京に殺戮した人数、20万人以上と確認した、川に捨てられた焼却した死体がまだ入ってない(約15万人)”、南京大虐殺は“集団殺戮、分散殺戮及び姦淫、強奪、焼き捨てる”等含め、“日本軍の中下層将兵より南京に犯した様々な犯罪は日本政府の黙認と支持を得だ”等内容を判明した。国際法廷の審判により、南京大虐殺の元凶の松井石根は絞首刑を実行し、懲罰を受けた。 

国際法原則及び中、英、米、ソ連など11国より設立した極東委員会にて日本戦犯への決議により、甲級戦犯は国際軍事法廷より審判、乙、丙級の戦犯は受害国家の軍事法廷より裁判。1946年2月、石美瑜を裁判長とした中国に日本戦犯を審判する南京軍事法廷(以下は“中国南京法廷”)正式に創立した。日本軍隊の第6師団師団長、乙級戦犯の谷寿夫、および南京に“人を殺す試合”の虐殺者野田毅、向井敏明及び田中軍等の戦犯を次々南京に引き渡し、裁判を受けた。1947年2月6日~8日、中国南京法廷はまず谷寿夫に対して三日間の公判を行った。3人の外国籍証人を含めた80数人の証人が出廷し、谷寿夫が所属した日本部隊より南京に起こした暴行を陳述した、千人以上の人が出席し傍聴した。12月18日、野田毅、向井敏明及び田中軍に対し裁判を行った、その際に法廷には満席になった。中国南京法廷が大量の人証、物証に基づいて、何回で繰り返した調査と検証結果により、“日本軍隊が南京に私が同胞の30万人以上を殺戮した事を”“確認できた、日本軍隊の谷寿夫、中島、牛島、末松などの将校が、共に捕虜及び非戦闘人員の虐殺行為た、”“南京の半分を灰燼までに焼き払った”“日本軍隊が意のままに略奪及び冷酷で無情な姦淫を起こした”“”日本軍隊の将校・士官が南京で‘人を殺す競技’中国人を斬り殺す事が楽しみにした行為”。法廷の審判に基づいて、谷寿夫、向野田毅、向井敏明及び田中軍等南京大虐殺の重要犯人に死刑の判決を下された。 

上述したように、南京大虐殺案は東京法廷及び中国南京法廷の共に判明した法的な結論として、歴史的な判決だ、合法で有効だ。 

二、当時の死体埋めた記録及び日本軍隊が死体痕跡を隠滅した証言は南京大虐殺の証拠として残した 

中国侵略日本軍は南京に起こした悲惨な大虐殺は、数十万体の死体を残した。これらの死体の埋めた事或は当時の処理記録は、我が同胞の30万人以上を殺害した事に最も説得力の証拠になった。 

当時、死体を埋めた事及び死体痕跡を隠滅した事は四つの事情があった:一つは世界赤十字会の南京分会、世界赤十字会の八卦州分会、中国赤十字会の南京分会、崇慈堂、同善堂、代葬局、順安善堂、明德慈善堂が八つの社会慈善団体が、あんなに悲惨な状況を见るに堪えなくて、社会公徳に基づいて遭難した同胞の死体を埋めた、全部19.8万個埋めた;二つは市民達は自分の同胞や親族の死体が野外を暴露するのを見ていられなくて、自発で臨時掩埋チームになり、約4.2万個の死体を埋めた;三つは偽政権第一区、第二区、第三区と下関区には、日本軍隊の大虐殺犯罪を隠滅したかったため、1.6万数個の死体を埋めた;四つは中国侵略日本軍が血生臭い暴行を隠したかった、平和仮相を見かけ、世界からの世論及び非難を逃げたかったので、15万個ぐらいの死体を壊した。全部の埋められた死体、日本軍隊が壊した死体と合わせて計算すれば、死体を埋めたと壊したところに、統計では重なる可能性も考えて、南京大虐殺の遭難者が30万人以上であったのは事実の根拠があったとと判明できた。 

三、加害者、被害者及び第三国人物の日記や映像がお互い証拠になった 

南京大虐殺に関わる資料は、日本が投降した時、たくさん壊した。日本が歴史真相を隠すため、今でも書類や資料等公布してなかった。しかし、20世紀70年代から、日本の出版界と新聞雑誌より続々と日本軍隊将兵の日記や従軍記者の証言等資料を掲載した、これらは加害者から証言より、南京大虐殺事件の研究に証拠を提供した。主な内容は:一つは南京大虐殺を参加した日本軍隊の将兵が書いた日記だった。例えば、1984年、日本《歴史及び人物》の第169号増刊には、当時、南京を横領した日本軍隊第16師団師団長中島今朝吾の《陣中日記》には、“方針としては全体的には捕虜を保留しないのため、奴らを片隅に集まった解決するのを決定た。”このような内容によって、間違いなく捕虜を殺戮するのが日本軍隊上層部の既定方針と判明できた。二つは南京大虐殺を参加した日本将兵の証言だった。例えば、1971年8月、当時、南京大虐殺を参加した日本古兵の岡本健三が《中国》雑誌のインタビューを受けた時、日本軍隊が死体痕跡を隠滅した事については次の通り詳しく述べた:“南京大殺戮は事実ではなかったと言った人がいた、嘘をつくな!わしが目撃者だった。”三つは日本軍隊の従軍記者が現場で目撃した事だ。例えば、鈴木二郎は《東京毎日ニュース》の従軍記者だった、1971年11月に《丸》の雑誌には彼が書いた《私の目で目撃した “南京悲劇”》との文書を発表した。文書の中に:“(1937年12月)15日に(南京)光華門の道路の両側を通ったところ、一つ一つの散兵壕を見た、中には数えきれないほど焼け焦げてぼろぼろな死体があった、道路の真ん中に敷き詰めた木の柱の下にも死体だらけ、四肢は折れて、バラバラになってた、まるで世の中に地獄のようだ。” 

中国侵略日本軍南京大虐殺遇難同胞紀念館の所蔵の書類には、4000数人分の南京大虐殺生存者の口述の資料を保存している、これらの資料は数十年間何度も大規模な調査や、この紀念館が建館以来30年間が持続的に収集した材料よりできた。一つは戦後の1946年に、 “二つの法廷” を協力し日本戦犯を審判したために、南京大虐殺案に対して調査を行った、数人の生存者を発見た。例えば、南京大虐殺の生存者の伍長德、交通警察だった、国際安全秩序を維持するのを担当してた。彼の話では:“1937年12月15日午前8時頃、突然に数十人の日本兵に来た、銃剣で青年壮年の男子をすべて外に駆けつけて、道路を集中させられた、全部約2千人以上だ、一緒に漢中門外の秦淮河辺におさえられ、日本軍隊が集団殺戮した時、私は遭難された同胞の死体に隠してたので、生き残ったんだ、日本軍隊は銃剣で刺した時に私の背中を刺された”。二つは1984年に、南京の六個の市街区域と四つの郊外に対して全面調査を行った、全部健在してた南京大虐殺の生存者がまだ1756人がいた。例えば、夏淑琴は当時中華門の新路口に住んでた、寄り合い住宅に二つの家庭がいた、共に13人が住んでいた。日本兵が飛び込んだ後に、短い数十分間、夏家の7人と近所の4人を銃殺した、彼女の母と二人のお姉さんが強姦されて殺した、彼女と妹だけ生き残った。その時、彼女は7歳、妹は4歳だった。彼女の背中を刃物で二回刺された、左腕を一回刺された、今でも傷あとを残してた。三つは1997年夏、紀念館は南京市教育局と協力し、全市15の区(県)の70歳以上の老人に対して大規模な全面調査を行った、1213名健在してた生存者を発見した。左潤徳は日本軍が豊富路にあった衛生所を放火した事を目撃した、火勢はとても大きくて、近くの住民はすべて家から出て火事を消そうと思ってたが、事前に隣の兵営で潜んでいた日本軍隊が壁を乗り越えて、銃剣を持って住民達を突いた、殺したら火の中に転んで落ちた。彼はこの事件に生き残った。 

南京大虐殺が規模大きくて、殺害が酷くで、被害者が多くて、国内外の証人の書簡、日記と証言を山ほど残してた、これらは中国侵略日本軍が南京大虐殺を起こした直接の証拠だった。一つ《南京安全区書類》に日本軍隊の暴行を記載した。この書類の記載により、南京に残した米、英、ドイツ、デンマークなど国の外国人は人道主義に基づいて、何度も日本軍隊や日本大使館に抗議を出した、二ヶ月の間に、安全区の国際委員会から日本側に手渡した公文は69件があった、日本軍隊の暴行に関わるのは428件があった。二つは《駐中国大使館の外交人員書類》だった。1990年にドイツの書類保存館ポツダム分館には、当時、日本軍隊が南京大虐殺暴行を目撃したドイツ外交部の駐中国大使館人員ローソンより作成した報告の内容約200ページの書類を発見た、その中に1937年12月24日、彼が船で上海に行った時、南京郊外に“山のように積上げ平民の装いてた人々の死体”を見た。三つは《南京国際救済委員会調査レポート》だった。委員会より金陵大学教授のスマイス及び彼の助手に調査依頼を頼んだ、1937年12月~1938年2月間に、南京市の街区と郊外について日本軍隊の暴行で被害状況に関する調査を行った、同年6月の記録リポート《南京戦禍写真》を作成した、“略奪は市内73%の家屋に与えた、城北区では略奪させられた家屋は96%。市内には平均的に88%の家屋を破壊させられるた、城外地区は90%、城北区の家屋は意外に99.2%破壊された”。四つは南京に残したの外国人の郵便物、日記と録音と録画の資料だった。当時、南京に残したの外国人達が、目撃した日本軍隊の暴行を詳しくて慎重に記録した、手紙を書いて親友と連絡した。1995年1月、南京鼓楼病院に米国医者のウィルソンの日記を発見した。この日記には中国侵略日本軍隊にて南京で焼却、殺す、放縦、強盗等の暴行を記録した。五つは外国記者が現場でのニュースだった。南京に残した米国《ニューヨーク・タイムズ》の記者ダーディンが、1937年12月15日に南京を離れる時、日本軍隊の殺戮暴行を目撃した。彼が上海に出した情報では《捕虜をすべて殺害、日本軍隊は南京での暴行は拡大、普通な平民も殺戮させ、米国大使館はを襲撃された》との文章は、12月18日に突然《ニューヨーク・タイムズ》上掲載した、世界では最初に日本軍隊が南京大虐殺事件を披露した。 

間違いなくの事実の前に、南京大虐殺の史実は疑う事がない、否定を許さない。日本の右翼分子と政治家達は歴史事実の真相を無視、極力にうそをついて、日本軍国主義が第二次世界戦争の中にアジア・太平洋地域の人民、特中国人民に与えた罪を隠そうと狙って、世論を欺く,日本国民を愚弄する。このような言行が歴史審査を通用できない、必ず平和を求めてる人々に軽蔑される。 

(作者:中国侵略日本軍隊南京大虐殺遇難同胞紀念館館長) 

関係論文