ご意見・ご感想

中国抗日戦争史における3つの重要問題を正しく認識する

発表時間:2015-08-19 | 字体拡大 | 字体縮小

著者:李文 | 出所:人民日報

中国の抗日戦争は、中国人民が日本軍国主義の侵略に抵抗する正義の戦争であり、世界反ファシズム戦争の重要構成部分と東方の主要戦場であり、中国が近代以来、外敵の侵略に抵抗し初めて完全に勝利をおさめた民族解放戦争である。中国人民は自ら粘り強く奮戦し巨大な犠牲を払い、日本軍国主義の中国に植民し中国人を奴隷にする企たてを徹底的に粉砕し、近代以来の外来侵略に抵抗し連戦連敗した民族の恥辱をすっかりそそぎきよめった。それから、もはや侵略者は中国の土地の上で横行してほしいままにふるまうことはできなくなった。

中国の抗日戦争は1931年九・一八事変からスタートし、1945年日本の降伏の宣言で終結まで、14年ものの、困難と曲折の闘争を経験した。14年間の抗日戦争は1つの全体であり、前の6年間、局部の抗日戦争は主として東北、華北と上海などの地区で展開され、全抗日戦争の前触れと重要な構成部分である。後の8年間の全国の抗日戦争は前段階の局部抗日戦争の延長と発展であり、中国が国を挙げて全面的に抗戦し、ついに日本侵略者に打ち勝った決戦であった。中国抗日戦争史を学び、理解するには、次の3つの面の重要問題をしっかり捉えて深く研究しなければならない。

一、中国抗日戦争は世界の反ファシズム戦争の重要構成部分であり、率先して独自に世界反ファシズム戦争の東方の主要戦場を切り開いた。

中国の抗日戦争は最初から人類文明を救い、世界平和を守る重要な意味がある。毛沢東同志は指摘したように、「東方のわれわれの敵は世界各国人民の敵であり、中国の抗日戦争は世界各国人民の抗日戦争である」。これが世界平和、人類の運命に関わっている世界の反ファシズム戦争において、中国の抗日戦争は一番早く開戦し、継続した時間は最も長く、中国戦場は長期にわたり日本軍の主要兵力を牽制し反撃し、日本ファシズムに打ち勝つために決定的役割を果たした。

中国は世界のファシズムに反対する戦争の初めてののろしを上げ。第1次世界大戦後、日本ファシズムはイタリアとドイツなどの国際ファシズムの氾濫につれて迅速に台頭した。20世紀20年代、日本軍部のファシズムは正式に形成したうえ、極力中国侵略戦争を熱狂的に扇りたてた。

1927年、日本首相田中義一は東京で東方会議を招集し、主宰し、中国を侵略する問題を重点的に討論した。会議後、田中義一は『满蒙(満州モンゴル)に対する帝国の積極的な根本政策』を起草したうえ、裕仁天皇に上奏した。これは悪名高い『田中上奏文』である。日本の右翼の一部の人は『田中上奏文』の存在を否定するようとしたが、各方面の史実は皆『田中上奏文』の作成が確実で疑いを入れないこと証明されていた。『田中上奏文』は露骨に次のように表明し、まず满蒙(満州モンゴル)を奪い取り、さらに全中国を占領し、踏み込んでアジアを併呑しようと、世界制覇を目指すおごり高ぶった野心的な構想が、20世紀30、40年代、日本軍国主義の対外侵略戦争を発動する総綱領となった。1930年、日本のファシズムが正式に政治の舞台に上がったら、更に侵略戦争を始める準備作業を加速させた。1931年、日本は率先して中国東北を侵略する九・一八事変を発動し、とっぱに世界ファシズムの対外侵略戦争を点火した。欧米の主要国が日本の侵略戦争に対して妥協・放任政策を実行する時、中国人が奮起して抵抗し、世界のファシズムに反対する戦争の初めてののろしを上げ、世界の反ファシズム戦争の序幕を開かれた。

中国は独自で世界の反ファシズム戦争の初めての大規模な戦場を切り開いた。1937年、日本は盧溝橋事件を引き起こし、中国を滅ぼそうとした目標に全面的な中国侵略戦争を始めた。ファシズムの気違い地味た侵入に直面して、中国の軍民は抗日民族統一戦線の旗幟の下で、ともに敵愾心を燃やし団結して侵犯に抵抗し、独自で世界最初の大規模ファシズムに反対する戦場を切り開いた。日本の戦略的進撃、中国の戦略的防御期、中日の双方は投じた総兵力が400数万人に達し、戦線は1800数キロ続いて、戦火は中国の10余り省・地区にび、作戦区域面積は約160万平方キロ、中国の5億近くの人口には4億が戦争に巻き込まれた。中日の全面的な戦争の勃発は、ファシズムと反ファシズムの矛盾が世界の主要な矛盾に上昇した具現であり、それは世界に全局面を刺激したうえ、枠組みを変えるような影響を及ぼし、実に第2次世界大戦の起点になった。

中国はずっと日本陸軍の主力に抵抗して反撃を加えて牽制した。世界の反ファシズム戦争の中で、中国戦場は日本の2/3以上の陸軍とかなり一部の海空軍兵力に抵抗し、それを牽制し、日本のファシズムの手足をしっかりと縛りつけ、それに長引いた戦争の泥沼に陥らせて自力で抜け出すことができなくなった。中国の持久抗戦により、日本のシベリア侵犯の北進計画が制止され、ソ連が両面作戦から免れ、力強くソ連のドイツファシズムへの抵抗を支援した。日本を牽制してその東南アジア進撃の歩みを遅らせて、日本軍が中国戦場の重い負担を背負われて南へ進み、米、英の日本と戦いを力強く支援した。ついに日本・独・伊ファシズムの東西進撃、世界制覇の戦略意図を粉砕した。中国の持久抗戦はソ、米、英などの反法西斯国のために貴重な戦争準備に時間を稼いだ他だけではなく、同盟国が「まずヨーロッパ、それからアジア」という大きな戦略の実施を保障するために重要な役割を発揮した。アメリカ大統領ルーズベルトが次のように言ったことがあり、「もし中国がなければ、中国は打たれて崩れるなら、どれだけの師団の日本兵力がその他の方面に移動し作戦することができるかを考えてみよう。彼らはすぐオーストラリアを攻め落とし、インドを占拠すことができる。――彼らは少しも苦労せずにこれらの地方を攻め落とすことができる。しかもずっと中東に突き進むことができる」。日本はドイツと協力し、大規模な挟み撃ちを行い、近東で合流し、ロシアを完全に隔離し、エジプトを呑み込んで、地中海へのすべての輸送線を断ち切ってしまう」と。イギリス首相チャーチルは次のように言った。「もし中国は崩壊すれば、少なくとも(日本軍)15の師団、もしくは20の師団が手があいているようになる。その後、大挙してインドを侵犯し、確かにその可能性があった」。ソ連元帥チュイコフ、セメン・アファナシエヴィッチ(Chuikov, Semen Afanasievitch) は次のように言った、「われわれが最も困難な戦争年代に日本はソ連に進撃せず、中国を血の海の中に溺れさせた。少しでも客観的な事実を尊重する人であれば、この明らかで争えない事実を考慮に入れなくてはならない」と。

中国は積極的に国際反ファシズム統一戦線の確立を提唱し、促進した。世界の反ファシズム戦争は国際的戦争で、広範な国際反ファシズム統一戦線を確立すること、これは独・日・伊侵略者に打ち勝つための重要な保証である。全国の抗日戦争勃発後、中国は世界の東方で率先して抗日民族統一戦線を確立しただけではなく、国際反ファシズム統一戦線を創立するために長期にわたりたゆまぬ努力を行った。中国の抗日戦争は世界の反ファシズム戦争における地位と役割が日増しに際立つようになると、ソ、米、英、仏をはじめとした国際勢力は中国と反ファシズム侵略という共通利益を踏まえて 逐次に戦略的協力の距離が近づくようになった。日本が太平洋戦争を発動し、第2次世界大戦が世界範囲に拡大したら、中国は進んでソ、米、英、仏等の同盟国と戦略的協調を強化し、国際反ファシズム統一戦線の正式な確立を促進し、戦争勝利を勝ち取るために有利な条件を創った。戦争後期、中国は国連の創始に参加し、国連の5つの常任理事国の一つとなり、積極的に国際事務に参加しただけではなく、隣国の独立運動を支持し、弱小民族の利益を守るとともに、同盟国と共に戦い、ファシズムを徹底的に打ち負かすために重要な役割を発揮し、国連の確立と戦後の成果を強化するために歴史的重要な貢献をした。

中国の軍民は各国の軍民とともに、お互いに支援し、協力してきた。全国の抗日戦争初期、ソ連が中国抗日戦争の主要支持者だった、中国に物資的援助を与えたうえ、多くの軍事顧問、技術専門家を派遣し、ひいては、直接空軍志願隊を中国に派遣し抗日戦争に参加させ、200名余りのソ連ボランティアパイロットが抗日戦争の中で命を捧げた。1941年、クレア・リー・シェンノート(Claire Lee Chennault)がアメリカ合衆国義勇軍(American Volunteer Group、AVG)を設立し、中国空軍を助けて日本軍と戦った。太平洋戦争勃発後、米国は中国に対する軍事援助を増やした。朝鮮、ベトナム、カナダ、インド、ニュージーランド、ポーランド、デンマークおよびドイツ、オーストリア、ルーマニア、ブルガリア、日本のなど国の反ファシズム戦士は直接中国の抗日戦争に参加した。ベチューン医者、柯棣華医者とドイツの記者のハンスなどの人々、中国の抗日戦争事業のために貴重な生命を捧げた。同様に、アジア・太平洋地域の同盟軍の対日作戦の重要な戦略基地として、中国は同盟国のために大量の戦略物資と軍事情報を提供し、人力、物資、財力の上で同盟国の反ファシズム闘争を支援した。中国の遠征軍はミャンマーに赴き、同盟軍と共同作戦を行い、日本軍に太平洋戦争後にめったなかった深刻な打撃を与えた。中国の遠征軍はミャンマー北部、雲南西部に反撃し、同盟軍のミャンマー取り戻しのために有利な条件を創り出し、同盟軍のインドシナ・ミャンマー地域と太平洋地域の圧力をを軽減した。

二、中国共産党は中華民族が団結して抗日戦争を行う柱石である

中国共産党は中華民族解放の前衛部隊として、相前後して一連の重要な思想理論を提起し、抗日戦争の成敗を決定する根本的、戦略的問題に創造的に答えるとともに、戦争において広大な敵後方戦場を切り開き、強固な抗日根拠地を確立し、危機存亡から民族を救う希望を支え、持久抗戦を堅持し、抗日戦争の勝利を勝ち取る柱石であった。

九・一八事変後、率先して抗日の旗印を挙げ、共産党員の模範とする役割を発揮し、崇高な精神と模範的行動で全国人民の抗日戦争の意志と必勝の信念を鼓舞した。中国共産党が終始全国人民に呼びかけ、全国人民を導き、結集させ、ともに抗日戦争を行うことを崇高な使命と見なし、身をもって実行して、揺るぎない意志で、命をかけて国難に赴き、前衛と模範的な役割を十分に発揮した。九・一八事変後、中国共産党中央と革命根拠地ソビエト政府は連続して10数部の文書を採択し、人民に抗戦武装を組織するよう呼びかけた。国民党軍の強い軍勢の包囲討伐した際、中国共産党は依然として大きな力を投じて東北の抵日闘争を指導した。盧溝橋事件勃発後、中国共産党中央は直ちに同文電報を発表し、「全民族が抗日戦争を実行してこそ、われわれの活路である」、日本軍の大挙進撃と国民党軍の後退継続に直面し、八路軍、新四軍は困難と危険を恐れず、困難に立ち向かい、敵の後方に挺進し、ゲリラ戦を展開した。平型関での大勝利は全国の抗日戦争以来中国軍隊が勝ち取ったはじめての大勝戦であり、全国人民の抗日闘志を極めて大きく鼓舞した。対峙した段階に入ってから、中国共産党の指導した敵後方戦場は更に抗戦・反侵略の主要戦場となり、約58%~75%の中国侵略日本軍とほとんど全部の傀儡軍に対抗した。抗日戦争期、延安は敵後方の抗日戦争の大本営と指導の中心をとして、広範な進歩的人士と革命青年のあこがれる革命の聖地となった。

抗日戦争の実際から出発し、全民族の力を結集し共に外国の侵略と圧迫に抵抗し、積極的に抗日民族統一戦線の確立を提唱し、断固として擁護した。毛沢東は次のように言って、「日本がわれわれをあなどるのは、主として中国の民衆が無組織の状態にあるからである」。中国共産党は最も政治的組織力を備える先進政党として、民族の危機存亡の瀬戸際に、率先して武装で抗日と抗日民族統一戦線の確立という主張を率先してうち出した。これまでの恨みを捨てて、西安事変を平和裏に解決するように力を尽くし、ついに抗日民族統一戦線の確立を促成し、全民族の抗日戦争を実現した。対峙段階に入ってから、国民党頑迷派による反共摩擦、特に皖南事件に対して、共産党は終始団結して抗戦の大局を重視し、国民党の反共の高まりを撃退するとともに、全力で国共合作と抗日民族統一戦線を擁護した。要するに、条件が如何に苦しんでも、情勢が如何に険しくなり、戦争が如何に残酷であろうと、中国共産党はあくまでも抗日民族統一戦線の断固たる擁護者であった。

全民族の全面的な抗日戦争路線と持久戦の戦略総方針を明確にうち出したうえ、それを堅持し実行し、弱をもって強に打ち勝つ戦争の指導を実行する。中国は半植民地半封建的な弱国として、日本の帝国主義強国に打ち勝つには、必ず正しい戦争指導方策を実行しなければならない。全国の抗日戦争勃発後、中国共産党は徹底的に日本に打ち勝つ十大救国綱領を提起するとともに、完全かつ系統的に全民族の全面的な抗日戦争路線と持久戦の戦略総方針をうち出した。毛沢東は次のように指摘し、「全国の民衆を動員すれば、敵をすっぽり沈めてしまう洋々たる大海原がつくられ、武器その他の欠陥をおぎなう条件がつくられ、戦争のあらゆる困難を乗り切る前提がつくられる」。毛沢東はまた時代と中日の双方の特徴を客観的に分析し、先見の明のある戦略的思考で、全国の持久抗戦の進展と変化する戦略防御、戦略対峙、戦略反撃の3段階を描き出し、特に戦略対峙段階に弱者から強者に転ずるという重要な意義を述べるとともに、最後の勝利は中国の明るい展望に属すると明らかにした。国民党も全国の抗日戦争に適応するいくつかの路線・方針・政策を実行し、持久消耗戦略を実行したが、あまりに「空間で時間をかえる」、外国列強の干渉と援助者に頼ることを強調し、単に政府と軍隊に頼って抗戦を行い、大衆を十分に動員し武装することはできなかったし、敵が強くて味方が弱いという力の対比の転換の戦略対峙段階の極端的な重要性を見て取らなかったし、一方的で、消極的な一面がある。

敵後方で戦場を切り開き発展させ、ゲリラ戦を展開し、全国抗戦にプラスになる戦略的枠組みを構築した。中日双方の優劣・長短に対する科学的な認識に基づいて、中国共産党は戦略的刷新を実行し、抗日ゲリラ戦を戦略的地位に引き上げ、一連の敵後方の戦場を切り開き、ゲリラ戦を展開する綱領、原則と方針を制定した。華北、華中、華南と東北の四大敵後方戦場を相前後して切り開き、敵後方を中国人民の抗戦前戦とした。敵後方戦場は正面戦場と互いに呼応して戦い、中国の抗日戦争の2つの戦場の戦略的枠組みを構築した。戦略防御の段階で、敵後方戦場での連続作戦の勝利で大量の日本軍の牽制により、それが正面戦場へより多くの兵力を引き抜いて派遣することができなくなり、戦略対峙段階の到来を加速させるために重要な役割を発揮した。対峙段階に入ってから、日本軍は逐次主要戦力を敵後方戦場に用いた。最初2年において、敵後方戦場の軍民は60%ぐらいの中国侵略日本軍とほとんどすべての傀儡軍に抵抗し、万回以上戦い、日本軍千人以上ないし5万人の「掃蕩(掃討)」を百回近く粉砕し、敵後方戦場は次第全国抗戦の主要戦場となった。1940年、国際ファシズムの侵略の気勢は極めて高まって、国民党内の対日妥協の動向が明らかになり、中国の抗戦は厳しい試練に直面し、八路軍は進んで百団大戦を発動し、重要な勝利を勝ちとり、全国抗戦の自信を極めて大きく奮い立たせた。抗日戦争の全過程において、敵後方戦場で組織した戦役レベルの大規模作戦が数十回に上り、日本軍・傀儡軍を大量に殲滅し、重々しく中国侵略日本軍に打撃を与えた。

抗日民主根拠地を確立し、抗戦の最後勝利を勝ち取る戦略的基地を構築する。抗日根拠地ではゲリラ戦により戦略任務を実行し、自己を保存し発展し、敵を消滅させ、追い払う戦略基地であり、敵後方における抗戦の本拠である。中国共産党は全国多くの抗日民主根拠地を指導し、打ち立てて、これらの根拠地は個々の点から逐次発展し大きくなり、互いに連結して面に広がって、抗日戦争勝利した時点で根拠地の面積は、100万平方キロ近く、人口は1億近く達した。根拠地は絶えず発展し、強大になった結果、日本軍が圧迫されて逐次に大中都市、交通要路と沿海の一帯に引っ込んだ。根拠地において、中国共産党は一連の抗日民主方針と政策を探究し、実行し、生産関係を調整し、生産力を向上させる各項目の社会改革を展開し、根拠地を軍民一体となる強靱なトカチに建設し、対峙段階の最も困難な時期、日本軍の持続的な過酷な「総力戦」に対抗しただけではなく、日本軍・傀儡軍、頑迷派の挟み打ちによる様々な想像し難い困難に打ち勝ったうえ、だんだん新しい力をためて、局部の反撃へ移行するために新しい条件をつくりあげた。根拠地は新中国を建設するために豊富な参考となった。

三、中国人民は抗日戦争と世界の反ファシズム戦争の勝利のために巨大な犠牲を払い、大きな貢献をした

その時の中国は、日本と経済実力、軍事実力などの面でかなり大きな開きがあり、多くの状況の下、中国軍民がほとんどはわが身をなげだし、敵に抵抗し、危険を顧みない精神で装備の上の劣勢を補い、戦場上の危機を緩和した。それに、日本ファシズムは中国人民に対して非人間的な、狂気じみた、耳目を驚かすような殺戮、迫害、奴隷化と蹂躙、様々の凶暴残虐な手段はどんな悪どい手でも使い、人類の文明史上で最も残虐で最も醜い暗黒の1ページを残した。大まかな統計によると、中国軍民は抗日戦争において死傷された人数は3500万人以上(そのうち、軍隊の死傷者は380数万人)、第2次世界大戦の各国の死傷者数総計の1/3を占めた。

九・一八事変後、特に全国の抗戦が始まったら、中国の各階級、階層と各社会団体は意識的に組織し、各種の形で抗日救国闘争を繰り広げた。全国各地の労働大衆は各種の形で積極的に抗日闘争に参加した。彼らは敵の砲撃と空爆を顧みずに生産を展開し、命の危険を冒して、軍隊、軍需品を運送し、難民と物資を疎開し、救国団、救国協会、抗戦後方支援会などの救国活動を組織した。中国人口の圧倒的多数を占める農民は、煩雑かつ重い労役を引き受けた状況下、抗日戦争のために大量の食糧を提供し、多くの軍需品物資の供給と戦時勤務サービスを保障してくれた。勤勉かつ勇敢で、善良かつ素朴な中国農民は抗日戦争隊列の主要な兵力供給源となり、多くの青年農民は次々と抗日武装に参加した。広範な愛国商工業界の人々は残業して生産を組織し、できるだけ軍隊と民衆の生活基本必要に満足させ、金銭・物品を寄付し、抗戦を支援し、前線へ将兵を慰問するようと代表を派遣した。多くの商工業界の人々は思案をめぐらして企業の機械と物資を安全な地域に運搬、移転し、極めて困難な状況㋨下で生産を堅持した。多くの知識人は特に愛国青年は長い上着を脱いで、農村に、敵の後方に、軍隊の中に行って、直接抗日闘争に参加した。広範な女性は抗日のために義捐金や支援物資を徴集し、難民、児童を救済し、各種の形で前線を支援した。根拠地の女性が積極的に抗日部隊のために服装を作ったり、穀物を送ったり、弾薬を運んたり、傷病者を救護して、軍隊入りに両親が子供を、妻が夫を見送ったり、敵情を偵察し、情報を伝えた。多くの女性は直接軍隊に加入して参戦し、趙一曼、東北抗日連合軍、「八女投江」などの多くの英雄的人物と事績が現れた。

日本侵略者の焼き払い・殺し・強奪と民族分離の陰謀に直面し、全国各少数民族人民と漢族人民は緊密に団結し、一丸となって敵に向かい、反ファシズム戦争の勝利を勝ち取るために大きな貢献をした。九・一八事変後、東北地区の各少数民族は漢族と一緒に、各種の抗日団体と抗日義勇軍に参加し組織した。有名な抗日英雄陳翰章、周保中、李紅光らは、すべて少数民族の優れた代表である。全国抗戦が始まった後、モンゴル族女傑――西公旗女王奇俊峰、東公旗額王福晋巴雲英は、茂明安旗齊王福晋額仁慶ダライラマは、次々と抗日陣営に身を投じ、モンゴル族軍を率いて勇敢に敵を殺して、抗日戦争期の3人の「女王」と尊称された。回族英雄馬本斎が冀中回民(教徒)分遣隊を指導し、攻めば落ちざるはなく、どんな難関も乗り越えて、いくら戦っても崩れず、引っ張られても秩序整然と誉められていた。海南島のリー族、ミャオ族などの少数民族大衆、農民自衛隊などを組織し、農民自衛隊や抗日武装を組織し、抗日部隊に協力して戦った。海上遊撃隊を組織し、日本軍の海上輸送の情況を偵察し、部隊に協力して敵の海上運輸隊に打撃を与えた。雲南の20余りの少数民族大衆は、生活が非常に苦しい状況下、衣食を切り詰めて、救国公債を買い、物資を寄付し、軍用食糧を納め、抗日戦争を支援した。多くの人力を出動し雲南ミャンマー道路を建設し、中国の抗日戦争期の重要な国際輸送線の開通をを保証した。チベットの宗教指導者第9世班禅額爾徳尼と第13世ダライラマは、全国に電報を通告し、日本の中国侵略犯罪を糾弾し、断固として抗日と主張した。新疆各民族の人々は大規模な募金活動を巻き起こし、1944年8月まで、合せて飛行機154機を寄付した。全国各地にあるカオシャン族、シャ族、トゥチャ族など少数民族の人々は、各種の方法で抗日闘争に参加した。多くの香港とマカオ同胞は自発的に帰国し故郷へ帰って抗日闘争に参加し、5万余りの台湾同胞は祖国大陸に帰って抗日戦争に参加した。

海外華僑はお金を出して力を尽くし、各種の方法で祖国の抗日戦争と世界の反ファシズム戦争に貢献をした。世界各地の華僑は次から次へと組織して、抗日救亡団体を創立した。全欧華僑連合会、南洋(東南アジア)華僑総会、在米華僑抗日救国連合会の三大華僑団体をはじめとする各種の華僑団体は3940余りであった。67歳高齢の陳嘉庚は自ら東南アジア華僑慰問団を率いてはるばる帰国して考察・慰問し、祖国の軍民の抗戦闘志を鼓舞し、華僑の帰国・投資するブームを促進した。1937年から1942年にかけて、海外華僑は合せて各種の飛行機217機を寄付した。華僑の寄付した大量のトラックは、戦時の雲南ミャンマー道路の運送のために保障を提供した。各地の華僑は先を争って公債を買い、引き受けた金額が巨大であり、これらの公債は実際には大部分が無償の寄付のようであった。海外華僑の戦時の巨額の華僑による為替送金は、いち早く多くの抗日のための兵器弾薬輸入の立て替える必要とする資金を相殺した。たくさんの華僑はまた帰国し積極的に投資し、抗日戦争後期政府のひどい「貧血」財政経済に対して「輸血」の役割を果たした。戦時に至急必要とする各種の薬品、華僑の寄付は薬を買うかあるいは直接国内外で製薬工場を設立し生産した。全国の抗日戦争が爆発した後、一部の華僑は帰国して戦闘に参加した。統計によると、3913人の南洋(東南アジア)華僑機工(自動車の運転や修理技術を持った華僑青年)は帰国してサービスし、昼夜を分かたず険しい運送ラインで働き続け、1000人余りは生命を捧げた。在米華僑は次から次へと航空学校や航空学会を設置し、航空救国活動を展開し、少なくと300名あまりの米国華僑は訓練を受けた機上勤務要員が帰国して参戦した。広東省華僑関係事務委員会の統計によると、戦時帰国した参戦した広東籍の華僑は4万人あまりいた。多くの華僑は中国共産党の指導した抗日部隊に加入し、東江縦隊の帰国同胞青年と香港・マカオ在住の華僑同胞だけでも1000人余りいた。多くの帰国同胞は抗日戦場で勇敢に命を捧げた。

中国人民は抗日戦争のきわめて困難な条件の下、ソ、米、英、仏などの国に戦時至急必要とした大量の農業・畜産業製品、鉱産物などの物資を提供し、各国人民の反ファシズム闘争を積極的に支援した。特に取り上げていうべきは、中国人民は日本侵略者の蹂躪で苦難に満ちた歳月、世界のファシズムにより迫害されたその他の被害者を真摯に助けていた。その時の上海は約3万人のユダヤ難民を受け入れ、その中には後に米国のカーター政府の財政部部長のマイケル・ブルーメンソール (Michael Blumenthal)が含まれていた。その時中国駐ウィーン総領事何鳳山が極めて大きい危険を冒して少なくとも数千人のユダヤ難民のために「助ける」ビザを発給したことにより、彼らがファシズムの魔手から脱出した、「中国のオスカー・シンドラー  (Schindler)」を言ってよい。

関係論文