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新中国の民族地域自治制度の歴史を考察する

発表時間:2015-02-05 | 字体拡大 | 字体縮小

著者:謝忠 | 出所:『当代世界と社会主義』2014年第5期

 1949年9月29日、中国人民政治協商会議第一回全体会議では臨時憲法的性格の『中国人民政治協商会議共同綱領』が採択された。その第6章第51条が次のように明確に規定し、「各少数民族の集中居住区域において、民族区域自治を実行するべく、民族の集中居住人口の多少と区域の大きさによって、それぞれ各種の民族自治機関を設立する」。この規定は民族区域の自治がすでに中国共産党の基本政策から新中国の基本政治制度となったことを示した。新中国成立した60余年来、民族地域の自治制度は次のような4つの時期を経験した。

 一、着実に推進する時期(1949~1956年)

 新中国の成立から社会主義改造の基本完成までの7年間、党と国家は「慎重にしつつ着実に推し進める」方針を堅持し、民族区域自治制度を全面的に推し進めるとともに、逐次規範化をはかり、その経験を系統的に総括するとともに、民族政策の実行状況をいち早く検査した。したがって、同時期の民族区域自治の取り組みは着実に推し進める鮮明な特徴を体現した。

 (一)民族自治地方の逐次設立

 国民経済回復の3年間は民族区域自治を推し進める最初段階である。新中国成立の時点、全国はすでに省レベルの自治区1区(内モンゴル自治区)、専区レベルの自治区2区と県レベルの民族自治区4区が設立された。l952年12月にまで、合わせて42の県レベル以上の民族自治区を新たに設立した。そのうち、1つは地方行政機構レベル、9つは専区レベル、32は県レベルである。その外、たくさんの県管轄区域、郷レベルの自治区がある。様々な歴史条件の制限により、特に民族の識別作業はまだ全面的に展開されていなかったため、その時国内外熟知された15の民族区域が自治を実行するしかなかったし、設立された自治区の大多数は民族関係が比較的に顕著で睦しい地区であり、更に民族地域の自治を推進するについて模範的役割を果たした。それ以外に、少数民族の主人公となる民主的権利を十分に保障するため、また民族が雑居する地区はあるいはしばらく自治を行う条件が整えていない民族の集中居住地区において、200余りの省、専区、県、県管轄区、郷などの行政レベルを含む地方民族民主連合政府が成立した。建国初期、中国地方政府には普通の人民政府、少数民族自治政府、民族民主連合政府の3種類のタイプがあった。社会主義改造の4年間、多数の民族地区はまた民主改革の段階にあった。民主政権を打ち立てるとともに民族識別の取り組みの全面的な展開に従い、自治地域は東北、華北から西北、西南まで延び、さらに中南、華南まで拡大した。自治のタイプは多様化傾向が現れ、単一型もあれば、連合型もあり、また包括型(即ち単一型あるいは連合型民族自治地方の中で、1つあるいはいくつかのその他の少数民族自治地方を含む)があった。1956年末まで、わが国は新規設立した省レベルの自治区が1つ(新疆ウイグル自治区)、省レベル自治区準備委員会が1つ(西蔵自治区準備委員会)、自治州あるいは専区級の自治区が22区、自治県あるいは県レベルの民族自治区が43区あった。区域自治を実行するの民族が31に増えた。その外、建国最初7年間、民族関係の歴史的特徴と社会経済発展の現実的需要に応じて、一部の民族自治地方の行政区画と従属関係を調整した。こうした調整はわが国の民族地域の自治枠組に対して直接で重要な影響を及ぼした。例えば、察哈爾(チャハル)、綏遠、熱河3省を取り消し、内モンゴルの統一を実現し、内モンゴル自治区の発展と繁栄のためにきわめて有利な条件を創出した。

 (二)民族区域自治の逐次規範化

 建国初期の民族区域自治は創始段階にあり、いくつかのあまり規範化されていない問題が存在していた。たとえば、名称が標準化されていなかったし、級別が多すぎ、郷(村)、区、県、専区と専区以上の5級があり、それに「自治区」と総称し、名称の上からその行政的地位を区分することはできない。ある名称もあまり簡潔でなかった。したがって、中央民族事務委員会は1951年12月、第2回委員会拡大会議を開いた。中央民族委員会主任李維漢は大会の上で『民族政策に関する若干問題』の報告を行い、民族区域自治制度の規範化をはかり、その実施を推し進めるために重要な役割を発揮した。1952年8月9日、わが国は『民族区域自治実施要綱』を公布した。これは新中国の民族の取り組みの歴史上で重要で深遠な意味がある。一方では、その公布は中国民族区域自治の取り組みが一応法制化、規範化の軌道に乗せたことを示した。新中国として民族地域自治の第一部の専門的法規として、1984年『民族地域自治法』が公布・施行されるまで、それはずっと中国が民族問題を処理し、民族関係を調節する主要的法律の根拠となった。他方では、それが定めた基本原則と具現している主要精神はわが国の憲法に受け入れられるとともに吸収した。そして中国は『民族区域自治法』を制定するために直接法律的素案を提供した。新中国の公布した第一部の憲法として、1954年憲法は民族区域自治に対して更に権威のある規定を行い、民族区域自治法制建設における一里塚の意味がある。実践は証明したように、県管轄区、郷などの小規模の集中居住少数民族は様々な自治権を行使することはできないし、自治機関を成立する必要がない。したがって、1954年憲法は自治区、自治州、自治県の3級体制を確認し、県レベル以下の民族自治地方を確認していなかった。しかし、人口の割合少くないあるいは集中居住区域がより小さい少数民族が内部事務を管理する民主的権利を保障するために、1954年憲法は民族区域自治の補充形式―――民族郷を確立した。その外、建国以来民族平等政策の宣伝と貫徹を経て、少数民族は各級人民政府に参与する民主的権利はすでに十分に保障され、各級地方民族民主連合政府はすでにその歴史的使命を完成した。したがって、1954年憲法は「地方民族民主連合政府」という政権形式を確認していなかった。憲法精神に基づいて、中国が1955年末から地方民族民主連合政府を改めるとともに、区と郷に相当する民族自治区を改め、民族郷を確立する取り組みを始めた。1956年4月、12月、この2つの取り組みは相前後して完成した。こうして、中国民族区域自治制度は基本的に定型化された。その外、憲法の民族区域自治に関する新しい規定に適応するために、全国人民代表大会民族委員会は1955年から民族地域自治法を起草しはじめた。

 (三)民族区域自治の経験の総括と実行状況検査の総括をいち早く行う

 1953年6月、中央人民政府民族事務委員会第3回拡大会議は『民族区域自治推進に関する経験の基本的総括』を行った。この総括は政務院で討論され、採択されるとともに、公表され、広範な社会的影響を及ぼした。それに続いて、同年6―7月に開催された第4回全国統一戦線工作会議は『ここ数年党の少数民族における活動に関する主要経験の総括』が採択された。この文書の紙面は長くないが、掘り下げて論述し、後に中国共産党中央が党内で回覧・転達するになった。上述の2つの文書は各自の角度から系統的に党と国家の民族取り組みを総括し、特に民族区域自治を実行する主要経験を総括し、民族区域自治を推進するために重要な役割を発揮した。その外、1952年と1956年、中国共産党中央は民族政策の実行状況について2回にわたって全国規模な検査を展開し、大漢民族主義と地方民族主義2種類の誤った傾向を是正した。党と国家のこの一連の対策措置は更に民族区域自治を実施するために思想的障害を一掃し、有利な政治条件と積極的な社会雰囲気を創出した。

 二、紆余曲折の発展時期(1957―1966年)

 10年建設期、その他取り組みと同様に、民族区域自治は成績もあれば、過ちもあり、曲折と発展が織りなす2重的特徴があった。

 (一)「左」よりの思想の台頭および民族区域自治に対する危害

 「1957年以降、『左』よりの思想は台頭し始め、次第に優位に立った」;民族の取り組みの指導思想もだんだんマルクス主義の軌道からそれていた。その主な表現は次の2種類ある。第1、「民族問題の本質が階級問題だ」と思い、民族問題を階級闘争問題と等しいとする。1958年6月、中国共産党中央は一応このような観点を提起したことがあった。1963年8月、毛沢東は『米国黒人の人種差別に反対する闘争を支持する声明』の中で、「民族闘争は、とどのつまり、階級闘争問題である」。この有名な論断は特定の具体的な含みを持っており、しかし、階級闘争の拡大化が絶えずエスカレートになる政治背景下、この論断は次第に汎化され、民族の取り組みの指導思想と上昇させられた。第2、「せでに社会主義になり、どんな民族か民族でないかと思っている」。「共産化ブーム」がますます激しくなるに従い、「民族融合ブーム」も急に盛り上がった。上述2種類の「左」よりの思想の表現は違っているが、その危害は同じであり、すべて根本的なものを放棄することなり、ついに民族の取り組みを取り消す厳重な結果につながる。「左」よりの思想指導下、民族区域も反右派闘争、「大躍進」と人民公社化運動が展開され、それによって民族区域自治制度が破壊された。第1、ある地方の少数民族幹部は大幅に減少された。反右派闘争の中で、たくさんの少数民族幹部、民族宗教界の代表人物、知識人ひいては一般大衆は、「地方民族主義分子」、「民族分裂分子」などの罪で逮捕され、労働教養にされ、免職させられ、甚だしきに至っては迫害されて死んでしまった。第2、民族区域自治体制は勝手に変更された。例えば、「共産化ブーム」、「民族融合ブーム」に影響されて、すべての民族郷は取り消され、それに代わったのは「農村人民公社」であった。たくさんの自治県は閉鎖し、統合させられた。自治州のレベルでは、州と署の統合により名ばかりで実質がなくなったのもあれば、地方管轄州のために行政の地位が下がったのもあり、いくつかの普通な県に合併させられたのもあった結果、自治民族の全州に占める人口の割合が大いに下がった。第3、少数民族の伝統的生産・生活様式は強制的に改められた。例えば、農・牧畜民を強制的に入社させ、チベットの以外の少数民族地域で数カ月以内に人民公社化を実現させた。食堂の運営に力を入れて、大製鉄運動、基本建設プロジェクトに大いに取り組み、森林の破壊・草地の開墾に力入れることにより、生態環境の急激な悪化と農・畜産業の生産の連年減収につながり、少数民族人民の生活は改めて苦境に追い込まれ、ひいては人口の大量の異常な減少する現象が現れた。一部の国境地域の大衆は次から次へと出国し「逃社」した。その外、少数民族の風俗習慣と宗教信仰を「封建的な迷信」、「立後れて保守だ」とさせられて一掃されて、その言語と文字の使用も制限された。

 (二)民族政策の調整と階級闘争の再びの台頭により民族の取り組みに対する衝撃となった

 3年困難期の到来により、「左」よりの熱狂はだんだん沈静化された。1961年1月、中国共産党第8期第9回中央委員会全体会議は国民経済に対する調整を決定した。こうした大きな背景下、党と国は民族政策に対して調整を行った。1961年7~8月、西北地区第一回民族工作会議が召集され、民族政策の調整する序幕を開かれた。続いて、全国民族工作会議は1962年4~5月に開催された。同会議は「大躍進」以来の民族、宗教と統一戦線の取り組みに対する全面的な検査を踏まえて、少数民族区域(主として各級自治地方)のこれから5年間の活動方針およびそれに適応する政策・措施を制定した。同年6月、中国共産党中央は烏蘭夫、李維漢など4人の提起した同民族工作会議に関する報告を承認し、転達した。そして、貴州、雲南、寧夏、広西、遼寧、内モンゴルなどの省・自治区は相前後して民族工作会議を開いた。この一連の民族工作会議を通して、広範な幹部は改めて次のことを認識し、民族問題は長期にわたっており、民族の取り組みは必ず民族区域具体的実際から出発しなければならない。力を集中して経済を回復し発展させ、人民の生活を改善することはきわめて重要である。こうして、たくさんの民族区域自治を破壊した「左」よりの誤りて是正し、民族の取り組みは改めてマルクス主義の正しい軌道を復帰するとなる。しかし、1962年9月、中国共産党第8期第10回中央委員会全体会議から、階級闘争は再び台頭した。そして「社会主義教育」、「四清運動」は相次いでやって来て、正しい軌道へ戻ったばかりの民族の取り組みは再びひどい衝撃を受けた。例えば、民主改革を経験していない民族区域で「補習」を行い、改めて階級構成を区別した。牧畜地区の改革の中で「3反2利」( 訳注=「3反」とは、一、反武装反乱。二、反労役、つまりすべての労役を廃止し、武装反乱に参加した三大領主と代理人の牧畜民とその他の勤労大衆に貸した債務を廃止する。三、人身奴隷のような酷使に反対する。「2利」とは、「放牧労働者と牧場主ともに有利で」、牧場主の放牧労働者に対する搾取と圧迫を制限し、適切に放牧労働者の給料の待遇を高めて、放牧労働者の政治上の権利を保障する」)政策を批判した。民族区域でおこなった平和的改革を「階級の調和」の修正主義路線として批判した。長期にわたり中央の統一戦線と民族の取り組みを主管した李維漢同志が「修正主義、投降主義路線」を実行したと非難されるとともに、その指導職務から解除された。

 (三)「左」よりの誤りを是正する中で民族区域自治は10年建設期に著しい進展が見られ、民族区域自治は「左」よりの思想妨害と破壊を受けたが、それは中国が民族問題を解決する基本政策としてなお引き続き推し進められ、特に党は各民族人民を指導して左」よりの誤りを克服し、是正するためにたゆまぬ努力を払った。したがって、民族区域自治は曲折しながら著しい業績を収めた。第1、3つの自治区、5つの自治州と26の自治県を新たに設立し、区域自治を実行する少数民族は38に達した。⑨こうして、中国の民族自治地方の基本的枠組みと規模は初歩的に形成した。第2、人民公社化運動を通って、圧倒的多数の少数民族は社会主義の道に向うようなった。この大きな社会歴史の変遷において、「左」よりの偏差が発生したにもかかわらず、総体的に見れば、それは人類社会の発展法則に合致し、民族地域の経済・文化発展および社会主義民族関係の強固化に明るい見通しを切り開いた。第3、1954年憲法の規定に基づいて、中国は各級民族自治地方で人民代表大会制度を確立し、少数民族の内部事務を管理するために基本政治制度を打ち立てた。第4、全国にとって、少数民族幹部と専門技術人材陣は強大になった。ある民族区域では反右派闘争の拡大化により少数民族幹部の大幅な減少に招がれたが、党と国家は各民族勤労大衆の中から多くの管理幹部と専門人材を育成し、建国初期に少数民族幹部と専門人材のきわめて不足する状況を根本的に改めた。第5、民族区域自治法制の取り組みは進歩が見られた。1958年6月、国務院は民族自治地方財政管理に関する初の単行法規を公布するとともに、1963年、改正を行った。その外、民族自治地方もいくつかの組織条例と単行法規を制定した。しかし、政治運動に衝撃され、民族区域自治法の起草作業はとぎれとぎれに行うのみだった。

 三、全面的な後退時期(1966―1976年)

 「文化大革命」において、きわめて「左」よりの思想の誤った指導で、民族の取り組みは階級闘争にカバーされ、取って代わられた。民族区域自治は「人為的に分裂をつくる」、「独立王国をやる」と見なされ、かつてないほど全面的に破壊され、実際には名ばかりで実質にはない状態となった。

 第1、文革初期の連絡しあい、権力奪取および武闘により民族地域の持続的な激動と全面的に無秩序状態をもたらした。たとえば、紅衛兵の連絡しあいは新疆の全面的な動乱を誘発した。上海の造反派は1967年1月、吹き始めた権力奪取あらしは全国を席巻するとともに、大規模な武闘を招いた。そして大規模な武闘はエスカレートして「全面的内戦」になった。これは民族区域は急速に混乱や麻痺状態に陥っただけでなく、多くの人員の死傷が現れた。第2、少数民族の幹部は迫害された。「文革」は多くの冤罪を作りだした。多くの少数民族の代表人物、幹部ひいては普通な大衆、「走資派」、「民族分裂分子」、「スパイ」、「裏切り者」、「外国に内通する」などの罪名に着せられ、迫害されて、多くの人は無実の罪で死に追いやらた。したがって、五つの大きな自治区の中で自治を行う民族から革命委員会の主任担当したのが広西チワン族自治区しかなかった。自治州、自治県の責任者も大部分が漢族の人から担当した。

 第3、民族区域自治体制と区画は再び勝手に変更された。「1月あらし」以後、圧倒的多数の民族自治機関の権力は奪い取られて、「革命委員会」に取って代わられた。ある自治州は地区に編入され、指導されようになり、そのもともと管轄した各県はすべて地区から直接指導するようになった。こうして実際にはこれらの自治州の行政地位を引き下げただけでなく、それらは「自治」が名ばかりとなった。1969年7月、「軍備」の名義下で内モンゴル自治区の「東三旗」と「西三旗」を隣り合った省の管轄に編入された。

 第4、民族自治地方のその他の自治権は踏みつけられた。経済扶助の面で、文革期に新しい政策を公表していないだけではなく、もとの特遇政策の実行まで停止しするか、ひいては明文で取り消した。教育文化の面で、民族学院と大学の運営が中止され、民族中・小学校もほとんど中止するか普通学校に改め、少数民族文字の出版物は大幅に下がった。日常生活面で、少数民族の風俗習慣は「四旧」だと見なされて一掃され、民族特需用品は工芸品の生産を「封建主義、資本主義、修正主義」だと見なされて取り消された。多くの寺、宗教施設・用品がたたき壊されるかほかの用途に変えられ、信者大衆の宗教イベントは余儀なく地下へ転換された。

 第5、民族地域の自治法制建設は大きく後退した。

 「文革」の勃発後、民族区域自治法の起草作業が全然に停止され、すでにあった成果までひどく破壊された。これは「極左」思想の指導下で制定された1975年憲法の中で集中的に体現した。一方では、1975年憲法は1954年憲法の関連重要条項を削除した。例えば、それは「それぞれの少数民族の集中居住地方が区域自治を実行する」という厳格な規定を削除し、根本から民族区域自治制度を国家の基本政治制度としての地位を動揺させるだけではなく、実際には民族自治地方の従属関係と行政区画を勝手に変更することを認可した。例えば、それは「自治権」に関する具体条項を削除し、民族区域自治が名実あいともなっていなくなった。他方では、1975年憲法は「革命委員会」が民族自治機関、「農村人民公社」が「民族郷」に取って代わった事実を確認した。これは政権名称に対する修正だけではなく、実際には集中居住の少数民族が内部事務を管理する自治の権利を剥奪した。

 第6、各級の民族担当機関およびそれに密接に関連する人民代表大会、政治協商会議と統一戦線部門はすべて中止され、批判を受けひいては明文で取り消すと命じられた。1966年7月、全国人民代表大会常務委員会、全国政治協商会議常務委員会はそれぞれ次のように決定し、人民代表大会と政治協商会議の召集が不定期に延期すると。その後、全国人民代表大会と政治協商会議は8年6カ月にわたって会議を一回も開かない不正常な状態が現れた。1966年8月、中国共産党中央統一戦線工作部は「修正主義司令部」とされた。1969年、中央民族事務委員会は正式に取り消された。そして、圧倒的多数の地方民族事務機関も取り消され、整理統合させられ、民族の取り組みに従事した大部分の幹部が農村に下放されたかあるいは「五七」幹部学校に入った。

 1971 年「九·一三」事件後、「極左」の政治狂热がいくらか下がった。1972 年1~2 月、中共中央、国务院は北京で宁夏固原地区活動座談会を開き、「極左」路線が民族の取り組みにもたらした危害を認識するようになり、「党の民族政策を真剣に実行すべきである」と再び提起した。1973年1月、毛沢東は「民族政策の再教育」に関する指示をうち出した。しかし、「左」よりの基本指導思想を変えていない前提下、「文革」後期、民族政策の実行がきわめて限界されていたし、主として一部の具体措置にとどまった。例えば、民族特需商品の生産、民族地区に対する優遇政策および少数民族地方の担当機関などを回復した。

 四、改善・回復する時期(1976年から今まで)

 「4人組」粉砕後、党と国家は党の民族政策を回復し、実行する面で多くの取り組みをした。しかし、「2つすべて」が「左」よりの指導思想上の誤りが続いたため、民族区域自治はその他の活動と同様に、2年間停滞した局面が現れた。1978年12月、中国共産党第11期第3回中央委員会全体会議が開かれ、民族区域自治はついに回復し、充実した春を迎えた。第11期第3回中央委員会全体会議の精神を徹底的に実行するために、中国共産党中央は1979年4月、全国国境守備活動会議を開いて、民族区域自治制度を回復し、充実する時期をスタートした。改革開放30余年来、民族区域自治の取り組みは世を驚かす偉大な業績を収めた。

 (一)民族区域自治に対する認識の3回飛躍を実現した

 第11期第3回中央委員会全体会議まで、党と国家は民族区域自治に対する認識は主として政策の面にとどまり、制度についてほとんど触れていなかった。第11期第3回中央委員会全体会議後、党と国家は民族区域自治に対する認識は3回飛躍を実現した。最初の飛躍は1984年民族区域自治法の公布を標識とする。この法律の中で、民族区域自治は初めて国家の重要な政治制度と呼ばれるようになった。この表現は建国以来民族区域自治の取り組みの経験と教訓に対する掘り下げた総括であった。第2回目の飛躍は2001年民族区域自治法の改正を標識とする。改正した後の民族区域自治法の中で、民族区域自治は初めて国家の基本政治制度と呼ばれるようになった。この表現は党と国家の民族区域自治の地位に対する新しい認識を反映した。第3回目の飛躍は2005年『中国民族区域自治』白書の発表を標識とする。この白書の中で、民族区域自治は初めて基本国策と呼ばれるようになった。この表現は、十六回党大会以来党と国家の民族区域自治に対する認識の位置づけは新しい高さに達した。

 (二)民族自治地方を確立する任務を基本的に完成した

 1979~1990年の11年間、中国は2つの自治州、62の自治県を確立した。満族、シェ族で、ムーラオ族などはそれまで民族自治を設立されていな地方での8つの少数民族は、単独であるいは他の少数民族と共同して自治県を確立した。1990年2月、中国政府はすでに民族自治地方確立の任務を基本的に完成したと宣言した。

 2003年10月、四川省北川羌族自治県は確立した。これは中国の最も若い民族自治地方である。これで、全国は合わせて155の民族自治地方を設立した。その中、自治区は5つ、自治州は30、自治県は120である。

 その外、2004年末まで、わが国は1159の民族郷を確立した。同時に、中国は民族自治地方の行政区画、行政地位、従属関係ひいては行政制度などに対して必要な調整を行った。1979年7月1日から内モンゴル自治区を1969年7月前の行政区画に回復した。省管轄県の体制を実行するため、中国は1987年11月海南リー族・ミャオ族自治州を取り消し、もともの同州に属したリー族、ミャオ族の集中居住県を自治県に改めた。その外、社会経済発展にの需要に適応するため、ある民族自治地方は普通の地級市あるいは県レベルの市に改めた。(三)民族区域自治法律法規体系を形成した

 1981年、党中央と全国人民代表大会の高度重視のもとで、長年に棚上げた民族区域自治法の起草は再スタートした。1982年憲法の公布施行は民族区域自治法の制定のために立法する根拠を提供した。1984年5月31日、第6期全国人民代表大会第2回会議は『中華人民共和国民族区域自治法』が審議・採択された。これは民族区域自治制度を実施する基本法律であり、民族区域自治制度をを堅持し改善する重要成果である。1991年12月、国務院は『〈中華人民共和国民族区域自治法〉のさらなる貫徹・実施に関する若干問題の通知』を出した。民族自治地方と民族省は一部の自治条例あるいは単行条例を制定した。

 社会主義市場経済と西部大開発の新しい情勢に適応するため、9届全国人民代表大会では2001年に2月28日に『〈中華人民共和国の民族区域自治法〉の改正に関する決定』が採択された。これから、民族区域自治の法制化過程は新しい段階に入った。2005年5月、『国務院が〈中華人民共和国民族区域自治法〉を実施する若干規定』は公布実施した。そして、国務院の関連部門および自治州あるいは自治県を管轄する省は、自治県を管轄する省管轄の市も相応する実施・規定を発表しした。同時に、中国のその他の法律法規も各自の範疇から民族自治地方の自治権を定めた。現在、中国は憲法を基礎とし、自治法を幹として、自治条例、単行条例、実施の規定およびその他の法律の関連規定を補充とした民族区域自治の法律法規体系を形成された。

 (四)民族区域自治機能の全面的な向上と開拓

 建国初期の民族区域自治実施要綱は民族自治地方と中央政府の政治関係を調整し、規範化を重点に置いたが、その機能は比較的単純だった。第11期第3回中央委員会全体会議後、民族区域自治法の機能は全面的に向上させ、展開された。これは社会主義民族関係が強固化され、党と国家の活動の重心が現代化建設の上に移ってきた深い反映である。

 一方では、民族区域自治法は自治機関が必ず国家統一と民族団結を擁護しなければならないことを強調するととも、更に民族自治地方の自治権を拡大し、特に自治機関の構成、少数民族幹部と専門人材の育成と配備などの面で一連の新しい厳格な規定を定めた。これらの規定は政治、経済、文化などの伝統分野を含むだけではなく、人口、資源、環境などの新興分野を含む。他方で、民族区域自治法は民族自治地方の経済・文化発展を加速させるテーマを際立せ、特に上級国家機関の支持と民族自治地方の発展助成の面で一連のより確実な規定を詳しく定めた。2001年民族区域自治法の改正はこの特徴を集中的に体現した。2005年5月、中国共産党中央、国務院は共同で『更なる民族工作の強化、少数民族と民族地域の経済社会発展の加速に関する決定』を定めた。同決定は科学的発展観を指導として、少数民族と民族地区の諸般事業の科学的発展を加速させる一連の重要措置を制定し、新世紀新段階党と国家の民族の取り組みの綱領的文献である。

 上述した内容を締めくくれば、新中国は民族区域自治を実行する60余年の歴史は、党と国家はマルクス主義理論を運用し、国内民族問題を解決した歴史である。この過程において「両端が良ったが、中間段階が悪かった」という全体の態勢が現れた。正反両面の歴史経験は証明したように、民族区域自治は中国民族問題を正しく解決するうえで必ず通らなければならない道である。

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