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「改革」「対外開放」の同時進行を

発表時間:2012-09-25 | 字体拡大 | 字体縮小

著者:中国全国日本経済学会副会長 馮昭奎 | 出所:経済産業研究所

  中国が日本の改革に大きな関心を寄せる理由は3つある。第1は、日本経済の将来を決定する日本の改革の行方が、日本と密接な経済関係を持つ中国にも大きな影響を及ぼすことである。第2は、中国と日本はともに「改革途上国」であると同時に、両国の改革にはある程度の相似性があるため、日本の改革の経験と教訓は中国にとって重視すべきものであることである。中国も「日本病」にかからないため、日本の改革の負の教訓に注意する必要があると考えられる。第3は、中国は日本が改革を通じて東アジア地域協力に参加するための障害を克服することを期待しているが、日本が地域協力に積極的な役割を果たせるかどうかのキーポイントとなる農業改革などを実行できるかどうかが、注目されることである。以下、日本の改革に対する疑問に関して、筆者個人の考え方を述べたい。

  強力なリーダーシップがあるか

  日本の改革推進には強力なリーダーシップが存在するのか。日本の改革の指導者としての小泉首相は、いまのところ日本の政界で彼を超える改革家・政治家がいないとはいえ、十分な権威と卓越した改革理念の持ち主であるかについては疑問がある。小泉首相は「聖域なき改革」というスローガンを打ち出したが、彼の日本の改革全体に関する設計図はまだ不明確で、思想性と権威性も欠けている。

  最近、小泉首相の支持率が大幅に低下したにも関わらず、日本国民は依然として小泉改革を強く支持し、期待している。しかし、小泉首相は、本当に必要な政治的な改革支持層を欠いているように見える。まず、小泉首相自身の政党、自民党のなかで、相当の勢力が小泉改革を支持しないばかりではなく、抵抗している者さえある。もともと小泉改革のシンクタンクになるはずの自民党内部の調査機関などが首相官邸と大いに張り合っている。党自体が党のリーダーと一致しないのは、自民党の現状と言えるのではないか。

  自民党内部の相当の勢力が小泉改革を支持しない一方で、日本には国民の広範な支持を得られる強力な野党も存在していない。「強力な野党が存在しないことが日本の民主主義に対する脅威になっている」とさえ言われている。すなわち、小泉首相を除く自民党自身が改革に対して消極的である現状のもとで、自民党以外にも改革を推進する能力を持つ野党も見当たらない。孤立しているとさえ見える小泉首相が、守旧派と妥協する可能性は相当大きいのではないか。

  真の推進力があるか

  日本の改革は「上から下へ」の推進力が必要なだけではなく、「下から上へ」の推進力も必要である。また、国内の推進力、すなわち「内力」が必要だけではなく、国外からの推進力、すなわち「外力」も必要である。しかし、日本の改革には本当の推進力がどこにあるか、まだはっきり見えていないのではないか。

  改革の方向性から言えば、小泉改革は国民の改革に対する願望を代表していると言えるが、改革が具体的設計と実施の段階に入ると、本当に国民の広範な擁護と支持が得られるかも疑問視される。医療、年金、社会保険などの改革措置がいずれも今の世代の国民の利益を減少させるものばかりだからである。言い換えれば、小泉首相はその改革の効果と国民の実際の利益と要求を結びつけることができていない。この点で、農村から都市部へと拡大し、実際の利益を得る人々を急増させた鄧小平の改革とはかなり違う。

  日本の財政・年金改革の一つの重要な目標は、後世の世代の利益のため、あるいは少なくとも後世の世代に重い負担をかけないようにするためだと承知しているが、改革の「受益者」になるはずの未来世代の人達はまだ生まれていないか、生まれても自分の主張を言えるまで20年以上はかかる。日本だけの問題ではないが、残念ながらいまの世代の政治家の中で、未来世代の代弁者は非常に少ない。いかにして、多数の人々に利益をもたらすか、あるいは後世代のためにある程度の損をする覚悟を持てるか。いかにして改革が苦痛を伴うものだけではなく、幸せと愉快さをも伴うものにできるか。この2つのクエスチョンマークは日本改革の重要な課題ではないだろうか。もちろん、特殊法人改革のように少数の利益集団に損失を与えるのは不可避である。

  明確な戦略があるか

  日本の改革の戦略には、日本の国情に基づく日本の特色はどこにあるのだろう。独立自主性が明確に打ち出されているか、対外開放戦略と結びついているか、情報技術(IT)など新技術革命の時代性を十分に取り入れているか、思想上どんな「突破」があるか等々、いずれも関心ある問題である。

  現在、日本の改革の戦略目標は「アメリカ化」あるいは「アメリカン・スタンダード」に合わせることのように人々の目には映っている。もちろん、大胆に自由市場経済の競争ルールを導入することには合理性がある。アメリカ合衆国の経済発展には手本とすべき成功経験が少なくない。自由市場経済体制は、人類が見出した現実性と実効性のある唯一の経済体制であることは言うまでもない。しかし、日本が東方文明の国であることも忘れるべきではない。日本自身の国情に基づく、日本の特色、東方文明の特色のある改革戦略がまだはっきり見えていない。

  真に日本国民の利益に合致する改革戦略は、日本の経済上の独立自主性を強化する戦略でなければならない。日本にとって最も重要な日米関係を離間させるつもりは全くないが、ここでは、1987年に日本がアメリカの「為替安定協力」の要求に同調し、金融緩和策をあまりにも長引かせた結果、日本経済をバブル化させた事実を想起してほしい。また、90年代に日本は10回以上も財政政策で景気刺激を試みたものの、経済は回復しなかっただけではなく、財政構造が非常に悪化した。これは、90年の「日米構造協議」の産物である「公共投資基本計画」との政策上の関連が否定できない。日本の学者の間では、日本国民に甚大な代価を払わせたバブル経済の発生は、ある意味では日本がアメリカの利益のため被った犠牲ではないかという議論がある。日本政府の一部の経済失策には「アメリカ要因」が存在していると見られる。特に金融分野では日米間にある程度の「上下関係」や「命令関係」があるのではないかとさえ言われている。また一部の学者は、日本政府の経済政策のなかに、「日本のための政策かアメリカのための政策か」と人々を迷わせるものがあると評している。それらの議論をどう見るべきか、多分様々な意見があろう。しかし日本経済の独立自主性を強化することは、日本の改革戦略を策定する際、考えなければならないことであると信じている。

  アジアへの開放は十分か

  中国人はよく「改革」と「開放」と2つの言葉を結びつけて使い、「改革開放」と言っている。これは道理のあることだと思う。「改革途上国」にとって、改革はやはり開放と密接につながらなければならない。真の改革がなければ、真の開放はあり得ない。また、真の開放がなければ、真の改革もあり得ない。いままで中国の改革が進展できたのは、対外開放と不可分の関係がある。しかし、小泉首相の改革主張を見れば、彼の改革は国内に限られているように見える。彼は「開放」という言葉をあまり使わない。もちろん、私は日本も中国のように「改革開放」を言うべきだと勧めているわけではない。ただ、日本のある程度閉鎖的な現状から見れば、改革と開放を同時進行する必要があるではないかと思う。対外開放のさらなる進展がなければ、日本の改革は進展しにくいと思う。

  「対外開放」というのは、過去に開放が不十分だった部分、あるいは本国の発展にとって非常に重要な世界の部分に開放を拡大することを意味する。例えば70年代末頃の中国の対外開放は、主に西側世界に向かっての開放を意味した。いま日本が開放を拡大すべき対象地域はアジア地域ではないかと思う。特に自由貿易協定(FTA)を含めたアジアとの地域的経済技術協力を強化することこそ、日本自身のさらなる発展と改革のための「開放」と言えるであろう。

  2001年版の日本の『通商白書』は、「東アジアの国々の発展活力を利用し、本国の経済振興を推進する政策を採るべきである」と提言した。「中国と日本は共にアジア経済発展を牽引する機関車になる」という専門家の意見も重視すべきである。この「日中機関車モデル」は「雁行型発展モデル」後のアジア経済成長の新しいモデルになる可能性が大きい。いま日本の意思決定者にとって、国内の経済政策はもう使い尽くしたのではないか。「内向型」の経済構造改革はもう行き詰まっていると思う。日本に期待するのは、「アジア繁栄主義」という大きな碁盤の上で、アジア経済成長の活力を十分に吸収し、「脱亜閉国」ではなく「入亜開国」して、長期にわたって日本の対外政策のウィークポイントとなってきた「地域経済外交戦略」を強化することである。そうするなら、将棋で追い詰められた状態に陥ったような日本経済は活路を見出せるのではないかと思う。

  もう1つ、改革の重要課題は、改革戦略と科学技術戦略との一体化を図り、改革を通じて科学技術の発展を促進し、ITなど科学技術革命の成果を十分利用して改革を推進することである。現在、日本には競争力が大変強い自動車、情報家電、工作機械など輸出型製造業がある一方、効率が低く、競争力が弱い農業、国内向けの一部の製造業及び流通業などの国内サービス業が存在している。この部分の低効率産業の存在は、日本経済全体の足を後ろから引っ張るだけではなく、日本の改革と開放をも阻害している。いま改革に対する抵抗力は主に、長期にわたり政府の保護を受けてきた低効率産業分野であり、それらの低効率産業分野の「既得、保護利益」を代弁する政治家なのである。

  思想上の「聖域」を打破できるか

  小泉首相が言う「聖域なき改革」を推進するためにはまず、思想上の「聖域」を打破しなければならない。それは中国が言う「思想解放」に当たる。小泉首相も「経済構造改革を推進するため、まず精神上の構造改革を推進しなければならない」と述べた。中国の改革は鄧小平の提唱する「思想解放」、「実事求是」から始まった。おそらく日本の改革も、「思想解放」、「実事求是」を重視する必要があるのではないか。いま日本の経済情勢に関して、マイナス面を誇張して過度な悲観論に陥ったり、問題点を軽視し、高をくくって油断するのは、両方とも「実事求是」に反する。

  思想上の「聖域」を打破するとなれば、一体どんな思想上の「聖域」があるかという問題を解明する必要がある。これは深く検討するに値する問題で、あえて以下にいくつか思想上の「聖域」の例を挙げる。第1は「反省障害症」。例えば「失われた10年」に関する真剣な総括、反省があまり見られない。第2は「責任逃れ意識」。巨額な不良債権の責任に対する追及は極めて不十分ではないか。第3は「安定を追求しすぎる心理」。「四平八穏」(極めて穏当である)は日本語で「少しも危なげなところがない」とも訳されたが、まさに「少しも危なげなところがない」改革には潜在的な危険性が大きいと思う。第4は「被害者意識」。自己責任から逃れるため、経済の悪さはむしろ外国の責任、外国の脅威のせいではないかという心理さえある。第5は「過剰な不安心理」、あるいは「過剰な危機感」。中国語には「人無遠慮、必有近憂」(遠い将来の事を考えないと、目の前に必ず思いがけない憂いが生じる)ということわざがある。そういう意味から見れば危機感があることが日本人の長所であると言えるだろう。しかし、常に「遠慮」のなかで生きていくのは疲れる。この面で中国人は割と闊達である。中国経済などには問題点も多数あるはずである。しかし、人間がいつも一番悪い将来を想像し、消費も合理的な投資も控えめにして、実体経済を必要以上に悪化させる恐れがある。

  産業構造「簡素化」の痛みを我慢できるか

  最後に、思想上の「聖域」と関連がある2つの問題を簡単に論じたい。その1つは「産業空洞化」問題である。日本の産業空洞化は、本質的には経済のグローバル化、すなわちグローバルな経済構造調整が日本とアジア諸国の間で具現化されたものであり、日本の過去の「フルセット」産業構造(「産業無空洞化」とも言える)に対する反動でもあると認識している。産業空洞化は先進国の産業の「新陳代謝」、「産業構造高度化」への必然的な道である。80年代のアメリカも産業空洞化のため悩んだことがあり、しかもアメリカの産業空洞化の一つ重要な原因は、日本の優れた工業品がアメリカに大量輸出することによってもたらされた衝撃であった。しかし、アメリカの産業空洞化問題がいまどうなっているかについて、中国のアメリカ経済専門家、陳宝森氏に問うたところ、「90年代に入って、アメリカではいわゆる産業空洞化という言葉が聞かれなくなった。産業空洞化は一時的に雇用の流失を招いたが、総じて言えば“弊”より“利”が大きいと見られ、アメリカ経済に利益をもたらし、特にハイテク産業の発展と産業構造の高度化を促進した」との答えだった。

  技術が絶えず進歩し、産業構造が絶えず多層化と多元化するに従って、労働集約型産業から資本、技術、知識集約型産業まで、国はあらゆる産業をすべて自国のなかに収めることがますます不可能になる。それはあたかも、住宅に新しい家具を購入する場合、どうしても古い家具を搬出しなければならないのと似ている。特に、日本のような狭い島国においては、産業構造を「簡素化」する必要があり、そのため一時の「苦痛」を我慢しなければならない。

  もう1つの問題は景気と改革の矛盾である。故小渕元首相は有名な「兎論」を後人に残した。「景気対策と財政改革は同時にやれるものではなく、景気刺激策も、財政改革もやれば、同時に2つの兎を追うように、結局ひとつの兎も追うことができない」というものである。小渕氏が景気対策と改革との間の矛盾点を指摘するのは道理にかなうところがあると思う。しかし「兎論」には「改革」をあまりにも狭義に理解し、改革と景気対策を相互に促進することに対する認識が不十分だったのではないかと思う。すなわち、第1に、改革の表層だけに着目し、改革の深層に対する把握が不十分ではないか。例えば財政改革に対して、赤字と公的債務の削減だけを強調し、中央財政と地方財政との関係、中央集権と地方分権との関係などについてあまり重視していない。金融改革に対しては、不良債権の処理はもちろん大事ではあるが、もっぱら不良債権の増減に「一喜一憂」するだけではなく、銀行の経営体制、銀行と企業との関係、金融の取引慣行、直接金融と間接金融の関係などの根本問題に対してもっと改革のメスを入れるべきではないか。第2に、マクロ改革だけに着目し、ミクロ経済においての改革に対する把握が不十分ではないか。例えば、一部の大企業のリストラと経営改革の進展などに対する把握が十分でなく、農業と流通業など低効率産業分野(自民党の重要な政治基盤の拠り所)における中小企業の改革もあまり進んでいない。第3に、国内改革ばかりに注目し、改革と開放(特にアジア地域に対する開放)とが結びついていない。

  日本政府がこのような改革に対する理解上の偏りを直せば、「ある時は改革という兎を追い、ある時は景気という兎を追う」という危いサイクルから脱し、経済成長と改革推進という2つの目標を同時に実現することができるかもしれない。

  馮昭奎  Feng Zhao Kui

  1940年生まれ。65年清華大学無線電電子学系卒業。83年中国社会科学院日本研究所入所、90年同副所長。現在は中国社会科学院研究員、中国全国日本経済学会副会長、中国中日関係史学会副会長。主要著書に『新工業文明』、『日本経済』、『日本:戦略の貧困』など多数。

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