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農民に土地の所有権と社会保障を同時に与えよう

発表時間:2012-09-14 | 字体拡大 | 字体縮小

著者:秦暉 | 出所:経済観察網2007年11月26日

  中国では、農地は「集団」によって所有され、個別の農民は農地の使用権しか持っていない。農地の所有権を農民に与えること(すなわち土地の私有化)を認めないのは、土地が農民の最後の命綱であり、社会保障の機能を兼ねているからであると政府は主張している。しかし、政府の都合で農民の土地がわずかな補償で強制的に収用されるなど、現行の土地制度が農民の権利を守っていないことは明らかである。

  こうした中で、せめて農地を収用する際、対象となる農民に、土地と引き換えに社会保障を受ける権利を与えるべきだ(「土地と保障の交換」)という議論が盛んになっているが、農業を続ける農民にも社会保障が必要であるという問題は置き去りにされたままである。本当に農民に保障を与えようとするならば、社会保障を受ける権利とともに土地の所有権を彼らに与えるべきである。土地が農民の私有財産になれば、これを売るかどうかが自ら決められるようになるだけではなく、市場価格で売却することが可能になるからである。農民はこの売却で得たお金で、大病や学費などの大きな負担に対応することもできるし、あるいは保険に加入することもできる。このように、農民は政府によって強制される「土地収用に対する補償」より、自主的な「土地と保障の交換」を通じて、高い水準の保障を得ることができる。

    一、はじめに  

  近年、農民の社会保障問題が注目を浴びている一方で、非農業用地の開発や政府の「土地売却財政」〔訳注:土地の売却収入に依存する地方財政〕に伴う土地需要が急増していることを背景に、「土地と保障の交換」という言い方が流行るようになった。これは、以前の「土地福祉論」、すなわち(農民にとって土地が最後の頼りであるため)農民による土地処分を認めないことは農民を保障するためであるという主張と比べると、前進している。少なくとも、土地の「非私有」(「集団所有」という現状)は農民に保障を提供できていないことが認められるようになった。また、かつての、土地も職業も保障もない農民(「三無農民」)を大量に生み出した「土地囲い込み運動」(地方政府による農民からの低い補償での土地収用)に比べても、社会保障の提供を土地収用の条件としたことはひとつの前進といえる。

  二、耕す田畑さえあれば社会保障はなくていいのか?

  まず、「(土地の所有権を持たず)非私有地を耕す農民は、土地の所有権を持つ農民ほど社会保障を必要としていない」という誤った既成概念を正さなければならない。

  農民の土地の所有権と、社会保障の必要性の間にはどのような関係があるのだろうか。周知のように、社会保障は「リスク」に対するヘッジするであり、一般的な意味の収入とは異なる。収入がなければむろん保障は存在しないが、かといって、収入があれば必ず保障があるとは限らない。例えば、農民、すなわち農業を生業とする者の場合、耕地がなくなった際、転職しなければ収入がなくなり、生計を立てられない。しかし、田畑を耕して収入がいくらかあっても、万一の事態に対応するためには社会保障が必要である。

  概念的に農民は二つのタイプに分けることができる。自分が所有する土地を耕す人と、他人が所有する土地(現在のような「集団」の土地を含む)を耕す人である。一般的に、前者を自作農、後者を小作農と呼ぶ。自作農の収入は必ずしも小作農よりも高いわけではない。資本があり、十分な経営規模がある小作農であれば、いわゆる「福佃」(裕福な小作農)または借地農場主になる。また、土地を貸してくれた地主が親切で、地代が非常に安ければ、この小作農の収入は同じ耕作水準の自作農と大差がない。

  しかし、「保障面」で見ると、二者の収入が互角の場合、自己保障能力は自作農の方が間違いなく小作農より高く、逆のことは決してない。言い換えれば、小作農が必要とする「社会保障」は必ず自作農より多い。理由は簡単である。通常の収入でリスク(大きな病気や高額な学費などの重い負担)に対応しきれない場合、自作農は収入のほかに現金化できる資源(主に自分の所有する土地)を持っているため、万一の時は「土地を売って命を繋ぎ」、「土地を売って学校に行く」ことができる。しかし、小作農はこの最後の手段をもっていない。

  ただし、二者の差異を過大評価してはならない。「土地を売って命を繋ぐ」ことができるのは一回きりで、土地を売ってしまえば自作農も小作農になるので、次にリスクに遭遇したら、二者は同じ立場になる。このため、自作農でも「土地を売って命を繋ぐ」手段だけに頼るのではなく、基本的な社会保障が必要である。今日の先進国では、農民が土地の所有権を持ちながら社会保障を受けることが一般的である。

  筆者は、以前、「土地が社会保障の機能を兼ねる」という説の不条理性を指摘したことがある。この説は農民が「土地の所有権」を持っているときに限って正しいが、農民が「使用権(貸借権)」しか持っていない場合には当てはまらない。むろん、現在のように「貸借権」さえ十分に保証されていない場合はなおさらである。

  しかし、これほど明白な論理でも、歪曲して解釈する人がいる。すなわち、農民は「政府の土地」を耕す場合、ある種の「保障」を得られるが、土地が農家の私有になれば、農家は「保障」を失うという。しかし、実際これまで、この「政府の土地」は、政府の都合で勝手に収用され、保障などなかった。現在では改善され、「政府の土地」を収用する時、「失地農民」〔訳注:土地を失った農民〕に保障を与えることを考えるようになった。そのため、この保障は、土地との「交換」(自由交換ではないにしても)に見える。これは、明らかに以前の「土地が社会保障の機能を兼ねる」という考え方の影響を受けている。問題は、耕地を収用される前の農民は「保障」を必要としないのか、あるいは、理論上、必要であっても、その緊急度は私有地を持つ農民ほど強くないのか、ということである。その答えは「ノー」である。

  三、親切な主人に面倒を見てもらえる小作農は保障を必要としないのか

  土地所有権が農民に帰属することに反対する人は、政府の土地を耕す農民が一般の小作農とは違うと主張している。一般の地主は地代を取るが、政府は取らない。確かに、政府の土地の耕作を請け負う農民の環境は、農業税免除の改革実施後大きく改善した。しかし、わずか数年前まで、政府の土地を耕していた農家の負担(政府に支払う地代と考えてもいい)は重く、「農村は本当に苦しく、農民は本当に貧しく、農業は本当に危険である」という窮境に陥った農民は土地を離れ、大量な土地が荒廃した。数十年前の「困難期」に至っては、政府が一般の個人地主よりもたくさんの「地代」を取り、大勢の餓死者を出したことさえあった。

  仮に、ある小作農が珍しく親切な主人と出会い、地代が全部免除された場合、この小作農は自作農よりも「保障」があると言えるだろうか。そう言えない事は明らかである。前述のように、同じように社会保障がない場合、土地を持つ自作農はまだ「土地を売って命を繋ぐ」という手段が残されるが、小作農はこの手もない。いくら親切な主人でも、地代を免除することができても、土地を売ることは許すまい。

  このように、土地だけでは十分な保障にならず、ほかに保障が必要である。また、このことは、自作農よりも小作農(政府の土地にしてもほかの個人の土地にしても、また主人が親切かどうかと関係なく)にとって重要である。

  まず、政府の土地を耕す農民は自作農(土地の所有者としての農民)よりも自己保障能力が低い。政府がいくら親切であってもせいぜい自作農より収入が低くならないようにする程度の話で、自己保障能力が自作農より低いことは一般の小作農と変わらない。このため、彼らは、土地を私有している農民よりも「社会保障」が必要である。しかも、これは「土地収用」される前に必要である。土地が収用された後は生計が問題となり、病気を治す、学校に行く、というような「社会保障」問題でなくなる。国または社会が彼らを「保障」することができず、彼ら自身で自分たちを保障することを望むならば、土地の権利を彼らに渡さなければならない。そうすれば、「土地が社会保障の機能を兼ねる」ことはまだ少し意味がある。しかし、彼らに土地の権利を渡さないのなら、本当の理由をきちんと説明すべきである。たとえば、いつでも土地を収用できるようにするためとか、農民の要求する価格が「高くなりすぎる」ことを防ぐため、国土の整備のため、工業化の「原始的」蓄積の加速のために農民に犠牲になってもらわなければならないため、などである。しかし、農民を「保障」するためというのは言い訳にすぎないであろう。

  以前、農民問題についてはいろいろおかしな言い方がされていた。そのうち最も偽善的なのは、次の二つである。ひとつは、「農民を自作農にすれば彼らの保障がなくなるため、小作農にした方が保障される」ということであり、もうひとつは、「政府による土地収用だけを認め、農民による土地売却を許さないのは農民の利益のためである」というものである。偽善とは少々言い過ぎで、研究者の発言としては適切でないかもしれないが、ほかにもっとふさわしい言葉が見つからない。農民を自作農にさせず、政府が土地権利を独占することはそれなりの理由があるはずである。しかし、それは決して彼らが主張しているものではない。厳しい民主法治の過程を経験した市場経済国家でも、公共利益のために土地を収用することはあるが、彼らは決して「収用される側の利益のため」とは言わない。

  四、「土地と保障を交換する」それとも「土地を収用する代わりに保障を与える」

  以前、「土地を売って命を繋ぐ」(「売地救命」)という私の発言に対し、一部の人が大変怒った。人聞きが悪いという。一方で、「土地と保障の交換」という言葉は現在の改革の注目点になっており、農民のためだとして広く語られている。この二つの言葉の違いは何だろう。「命を繋ぐ」ことは一時的であるが、「保障との交換」は長期的な効果があると言う人もいる。実際、「土地を売って命を繋ぐ」ことは極端なケースで、めったに起きることはない。しかし、それでも土地よりも命の方が大事であり、ほかの保障手段がない時に土地を現金化するという農民の最後の手段を剥奪することは、人道に反すると言いたい。農民がこの権利を持っていれば、これで「命を繋ぐ」だけでなく、「土地を売って」、保険などに加入することができる。これこそ、「土地と保障の交換」なのではないか。

  農民が自主的に行う「土地と保障の交換」の特徴は、強制的に行われる「土地と保障の交換」に比べ、より高い水準の「保障」が得られることである。それは、土地の市場価格は一般的に「土地収用に対する補償」より高いためである。むろん、これには、十分に発達した保険市場、適切な保険商品が必要で、また農民も関連情報を十分に理解しなければならない。ゆえに、政府がこの面でサービスと支援を行いたいのであれば、なすべきことがたくさんある。また、商業ベースの保険のほか、所得の再分配を前提とする社会保障も必要なため、政府は能力と意欲があればこの面でも力を発揮することができる。正常な市場経済では、商業ベースの保険と社会保障は相互補完関係にあり、排除し合うものではない。さらに、前述のように、このような社会保障は、農民が「土地を収用される前」に用意されるべきである。農民が土地を失ってからでは遅すぎる。

  さらに重要なことは、農民の自主的な「土地と保障との交換」(もしくは「土地を売って命を繋ぐこと」)は、農民の都合に合わせて実施されることが前提となっている。これに対し、農民の自主的でない「土地が収用された後に保障で補償する」ことは農民の都合ではなく、役人または不動産デベロッパーなど相手の都合を前提としている。つまり、このような「土地と保障の交換」は農民を保障するためではなく、土地売却による財政収入を保証するために行われる。もし政府が土地の囲い込みをしなければ、「交換」が行われず、農民の「保障」もなくなる。

  むろん、農民の自主的な「土地と保障の交換」は現在の制度では認められていない。厳密に言えば、現在の土地制度の下では、「保障との交換」とは程遠い。なぜなら、「土地と保障の交換」が、農民の土地に対する所有権が認められた状況下で行われる自主的な「交換」ではなく、行政的、強制的に行われているからである。この方法は「土地と保障の交換」というより、「土地を収用する代わりに保障を与える」と言った方が正しい。このため、この方法の結果は任意性が強く、不確実性が大きい。明らかに、「土地」と「保障」は、その量や強弱など多くの違いがある。どの位の「土地」で、どのような水準の「保障」と交換するかなど、考慮しなければならない要因が非常に多い。

  理論的に言えば、この問題の解決法は結局、二つの方法に集約できる。ひとつは、価格交渉を通じて自主取引を実現する方法である。どのような「土地」でどのような「保障」と交換するかは双方の「契約合意」によって決められる。もうひとつは、片方(「土地を収用する」側)が決める方法である。もし、相手が非常に親切ならば、農民にとって「交換」で入手した保障は土地の価値より高くなるかもしれない。しかし、これが慈善行為であるなら、なぜ援助を受ける側から強制的に土地を取り上げる必要があるのだろう。また、ケチで不親切な役人が、少ない「保障」で農民の価値の高い土地を奪い、土地売却により財政収入を増やすという目標を実現しようとすることを、どのように防げばいいのだろうか。

  「土地と保障の交換」は、自由取引という市場手段で実現することができないのか。むろん可能である。実際、市場経済では、所有者が所有物(不動産など)を売却して得られた収入で各種の保険(健康保険、医療保険、養老保険、生命保険など)を購入することはごく普通である。厳密に言えば、これこそ本当の土地と保障との「交換」である。むろん、近代福祉国家ではこのような商業化された「保障」だけでなく、特に貧しい人を援助するための社会保障を備えることは民主国家の責任である。また、土地価格が低すぎれば、農民は十分な保障と「交換」することができないため、依然として国の助けが必要である。しかし、これには、交換を認めないことを前提とする必要があるのだろうか。

  一部の人は、農民が浅はかで土地の代金を手に入れたらすべて他のことに使ってしまい、保険を買わない、もしくは十分な保険を買わないと想定する。だからといって、政府が農民の家庭事情の対応において農民自身よりも上手なのかも疑問である。もし政府が農民のことを心配するのであれば、彼らに農地売却の権利を認めた上、保険への強制的加入を実施すればいいのではないか。この方法についても議論があるだろうが、農民から土地を売却する権利を奪うよりはましである。

   (出所)経済観察網2007年11月26日
※和訳の掲載にあたり先方の許可を頂いている。

  

  秦暉 Qin Hui

  清華大学人文社会科学学院歴史学部教授。1981年蘭州大学卒、歴史学修士。米ハーバード大学フェアバンクセンター客員研究員、ハーバード・イェンチン研究所(HYI: Harvard-Yenching Institute)ビジティングフェロー等を経て現職。主な研究テーマは農民史、経済史。主要著作に『農民中国:歴史反思与現実選択(中国の農民:歴史の再考と現実の選択)』、『十年蒼桑:東欧諸国的経済社会転軌与思想変遷(十年蒼桑:東欧諸国の経済社会の転換と思想の変遷)』などがある。

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